境野大吉(さかいのだいきち)     嘉永6年〜明治42年(1853-1909)

    姫路藩最後の仇討の主役・東京火災筆頭取締役。父、境野求馬(さかいのもとめ:境野意英)(四男)。藩校「好古堂」に学び、同期の石本新六(のちの陸軍大臣)・古市公威(のちの東京帝国大学教授)とともに「姫路の3俊才」といわれる。幕末のころ姫路藩では、佐幕派の筆頭家老高須広正(ひろまさ)と、勤王派の家老河合良翰とが対立していた。勤王派の河合惣兵衛(宗元)の養子で大吉の実兄河合伝十郎(宗貞)らが脱藩。勤王派の弾圧が始まる。境野求馬の下僕が裏切り佐幕派に密書を渡したため、河合良翰・河合伝十郎らが捕縛される。元治元年4月2日境野求馬は責任を感じ自刃した。元治元年(1864)12月26日伝十郎は斬首、河合惣兵衛ら約70人が自殺刑・禁固刑・蟄居謹慎などの処分となる(甲子の獄)。大吉はまだ子供で、その後姫路藩家臣力丸五左衛門の養子となる。慶応4年(1868)備前藩により姫路城は開城させられて、領地安堵・家名存続のため力丸が江戸の藩主を説得するため江戸に赴くが、佐幕派の藩士に暗殺される。このとき大吉16歳。養父の敵を追って4年、一応の決着をつけ姫路に帰る。幕府が瓦解し、形勢が逆転、勤王派は赦免となる。大吉は、力丸家の長女と離婚し東京へ赴き、はじめ福地源一郎の塾で英語を、のちドイツ語を学ぶ。印刷業をはじめ成功するが、資本主と対立し失敗。炭屋を始め御用商人となるため、兄伝十郎の親友である内務省の武井守正を訪ねるが、勧められて明治10年(1877)新政府の官史となり、のち明治25年(1892)東京火災に武井守正と共に取締役として入社する。明治42年(1909)筆頭取締役。56歳。
※ 古市公威の屋敷は、お茶の水駅前に現存し、子孫の方が保存されている。
※ 三島由紀夫の本名平岡公威は、古市を尊敬していた兵庫県出身の祖父が命名したもの。
※ 上記内容および墓碑は、境野大吉の後裔の方の情報により作成。

墓は、谷中霊園 乙4号9側。10側横の通路を入り、右側2基目。正面「境野家累世之墓」。墓誌なし。