武井守正(たけいもりまさ)    天保13年〜大正15年12月4日(1842-1926)

    政治家・実業家・男爵。父、武井領八(二男)。幼名、寅三のち逸之助。早くに父を亡くし、兄正平に教育を受ける。秋元安民に国学を師事。京都の儒者宮原皆叟に漢籍を、大阪の萩原広道に国典を学び、本居豊頴にも学ぶ。姫路藩家老の家臣で尊王攘夷派、藩士。元治元年(1864)姫路藩で起きた尊王攘夷派弾圧事件「甲子(かつし)の獄」で処刑されず残った。明治元年(1868)大津県雇いを皮切りに官界を歴任。明治11年(1878)西南戦争の恩賞に不満をもった近衛砲兵兵卒らによる陸軍最初の反乱事件である「竹橋事件」時は、当時内務権大書記官であった武井守正の部下が情報を盗み聞きし上司武井守正に知らせたため政府が先手を打って失敗に終わらせた。平県権令(平県は、磐城平県・湯長谷県・泉県・春県・棚倉県・中村県を併合して県置してできたもの)。明治21年(1888)鳥取県知事。石川県知事。大正9年(1920)皇族結婚スキャンダル「久邇宮朝融王婚約破棄事件」にも関与した。藤沢市の東京醸造(1924-1955)を創立。明治24年(1891)貴族院議員。明治25年(1892)退官。明治26年(1893)帝国保険社長。大正12年(1923)枢密院顧問。男爵。子に作曲家武井守成がいる。3女登志子(1875-1936)は、美術雑貨の貿易商箕田長三郎の妻で、墓は、寛永寺谷中墓地にある。

 
墓は、谷中霊園乙10号9側。当該ブロックに「武井」が2つあるが、通路に面していない方。正面「枢密顧問官正三位勲一等男爵武井守正墓/武井富士子/従二位勲二等武井守成」。