本居豊頴(もとおりとよかい)    天保5年4月28日〜大正2年2月15日(1834-1913)

    国学者。名、八千代・豊頴。通称、稲楠・中衛・平造。号、秋の舎・秋屋。父、紀伊和歌山藩士本居内遠(長男)。国学者本居宣長(もとおりのりなが:1730-1801)の曾孫。和歌山県出身。母、藤子に家学を学び、安政2年(1855)父の死去により職を継ぐように藩から要請があったが、若年のため辞して故郷に帰るが、母の説得で家学を継ぎ、国学研究に専念する。明治維新後神道界に入って活躍した。明治3年(1870)権中宣教師、のち宣教権中博士・大祀御用掛。平野神社大宮司・神祗大録・神田神社社司などを経て大教正となり、大社教副管長。明治25年(1892)東京女子高等学校教授。明治23年(1890)に設立された皇典講究所の「古事類苑」編纂事業に黒川真頼小中村清矩木村正辞内藤耻叟とともに検閲委員として参画した。明治29年(1896)東宮侍講一等高等官。明治30年(1897)御歌所寄人。明治33年(1900)帝国大学文科大学講師。明治39年(1906)帝国学士院会員。明治40年(1907)東宮侍講職。明治41年(1908)富美宮・泰宮御用掛。明治42年(1909)文学博士。門人に、関根正直・丸山雅彦・萩野由之・松本愛重・平田盛胤・坂正臣らがいる。孫に本居長世がいる。正三位勲二等。80歳。著書:歌集「秋屋集」、歌論集「歌談」、「本居雑考」、「進講録」、「諄辞集」、「大八洲歌集」、「古今集講義」など。

※ 辞世:芦鶴の霞を誘う羽風より山も千里になびく春かな

墓は、谷中霊園乙10号左4側。舗装通路沿い。正面「本居豊頴之墓」