佐田家親(さたいえちか) 弘化元年?〜明治44年10月2日(1844?-1911)
新政府転覆「立志社」挙兵計画に加担のメンバー。大江卓を中心として、西南の役の機を利用し、鹿児島討伐の軍組織を名目として軍を組織し、その兵は実際は大阪城と松山城をのっとり、鹿児島軍に呼応して政府に反旗をひるがえし、政府を転覆させようというのであった。手はずは、木戸孝允・伊藤博文・鳥尾中将等の重臣を暗殺しようと計画。鉄砲の手配が遅れ、未遂に終わるが、政府に陰謀がばれて、大江卓、林等立志社の幹部が次々と逮捕され判決は次のとおり。禁獄10年が、林有造・大江卓・岩神昂・藤好静。禁獄5年が、池田応助・三浦介雄・陸奥宗光。3年が、中村貫一。2年が、岡本健三郎。1年が、山田平左衛門・林直庸・竹内綱・谷重喜・岩崎長明・佐田家親・弘田伸武・野崎正朝。100日が片岡健吉。正六位勲六等。67歳。
墓は、谷中霊園 乙11号12側。近藤利兵衛墓の隣り。正面「佐田家之墓」。