島田穆堂(しまだもくどう)/島田鈞一(しまだきんいち)     慶応2年7月15日〜昭和12年12月13日(1866-1937)

    漢学者・教育家。名、鈞一。字、彦和。号、穆堂。父、島田篁村(長男)。母は、大野右仲の妹。新潟県出身。幼くして漢学を学び、のち儒者藤沢南岳(通天閣の命名者)の門人となる。帝国大学卒業。第一高等学校教授。東京文理科大学教授。東方文化学院東京研究所研究員。中国哲学者服部宇之吉(はっとりうのきち:1867-1939)・漢学者安井小太郎(やすいこたろう:1858-1938)らと親交あり。妻は漢学者川田甕江(かわたおうこう:1830-1896)の娘。72歳。著書:「春秋左氏伝新講」、「論語全解」など

島田俊彦(しまだとしひこ)     明治41年?〜昭和50年12月8日(1908?-1975)

     軍事史家・武蔵大学教授。父、島田穆堂。昭和6年3月旧制浦和高等学校文化丙類卒業。昭和9年3月東京帝国大学文学部国史学科卒業。昭和11年3月東京帝国大学大学院退学。昭和12年(1937-1942)1月旧制聖心女子学院高等専門学校教授。昭和17年6月軍令部嘱託、戦史編纂事務。昭和18年12月海軍編修。昭和20年10月終戦のため依願免官。昭和22年1月財団法人文化復興調査会嘱託。昭和25年4月武蔵高等学校講師。昭和26年同校教諭。昭和28年4月武蔵大学講師兼任。昭和32年4月武蔵大学教授。昭和41年(1966-1967)10月東京外国語大学講師。昭和44年4月武蔵大学人文学部教授。昭和46年4月東海大学文学部史学科講師。67歳。論文・著作:「昭和7年上海停戦協定成立の経緯」、「上海停戦協定侵犯問題」、「太平洋戦争への道」、「張作霖爆殺事件」、「関東軍 在満陸軍の独走」、「満州事変と日中戦争」、「昭和の激流」ほか多数。「智徳院静照俊因居士」。

墓は、天王寺墓地。芳野金陵墓裏側。天王寺累代墓前。正面「島田家之墓」。