高田畊安(たかだこうあん) 文久元年8月19日〜昭和20年2月9日(1861-1945)
結核医学者・サナトリウム「南湖院」を設立。父、綾部藩典医増山守正(二男)。京都府加佐郡(舞鶴市)出身。明治17年(1884)京都医学校本科卒業。明治22年(1889)東京帝国大学医学部卒業。ベルツに師事。新島襄に師事してキリスト教の洗礼を受け、明治25(1892)勝海舟の孫娘に当たる疋田輝子と結婚。明治27年(1894)香港でペストが流行し、青山胤通博士が罹患した際に香港に派遣される。明治29年(1896)東京神田駿河台に東洋内科医院を設立。明治32年(1899)9月結核診療施設の必要性を痛感し、茅ヶ崎海岸にキリスト教的サナトリウム「南湖院」を設立。明治41年(1908)クリスチャンであった国木田独歩が入院し知名度を上げた。明治45年(1912)国際結核学会に出席。大正5年(1916)医学博士。ドイツ留学・欧州視察。しかし、昭和20年(1945)5月海軍に接収され解散。その後、連合軍が接収し、昭和31年(1956)接収解除となる。ちなみに、詩人大手拓次・歌人落合直文 ・作詞家佐藤惣之助・童話作家坪田譲治・作家田端修一郎・社会運動家平塚雷鳥の姉(孝子)・歌人前田夕暮の長女(妙子)・詩人八木重吉・歌人吉井勇・小説家中里介山なども入院したことがある。勝海舟の担当医であり、妻輝子(1870-1941)は海舟の孫。
墓は、谷中霊園 甲12号左1側。当ブロックの最奥、天王寺墓地境のフェンス沿い。正面「高田畊安之墓」。