田安宗武(たやすむねたけ)/徳川宗武    正徳5年12月27日〜明和8年6月4日(1715-1771)

     御三卿田安家初代当主。国学者で歌人。8代将軍徳川吉宗の次男。生母、側室竹本正長の娘こん・お古牟の方(本徳院)。正室、近衛家久の娘森姫(宝蓮院)。赤坂紀伊藩邸で生まれる。幼名、小次郎。15歳で元服、右衛門督宗武と称し、従三位中将。松平姓から徳川姓に改め、享保16年(1731)江戸城田安門内に住み田安徳川家を創設。幼少より荷田在満や賀茂真淵に国学を学ぶ。兄の9代将軍徳川家重より聡明であったため将軍後継問題が起き、3年間と登城停止処分を受ける。歌人としても秀れ、また有職故実の研究者としても知られる。57歳。著書:「楽曲考」、「楽曲考付録」、「舞楽装束図稿」、「玉函秘説」、「服飾漫語」、「服飾管見」、「冠服類聚愚抄」、「古事記詳説」、「国歌八論余話」、「歌約言」、「摘要冠辞考」。歌集:「天降言」。

墓は、寛永寺谷中墓地。御台様墓地の隣り。田安家墓地の向かって最右。「悠然院殿寛山圓休大居士」。昭和9年9月凌雲院より改葬(以下同様)。

宝蓮院     享保6年〜天明6年(1721-1786)

     徳川宗武の正室。従一位関白内覧太政大臣近衛家久の娘通子・森姫。子は、誠姫・裕姫・小次郎・銕之助 ・仲姫(池田重寛室)・治察・節姫(毛利治親室)。

墓は、田安家墓地に向かって右から2基目。宗武墓の隣り。「宝蓮院殿性池覚棲大姉」。

田安治察(たやすはるさと/はるあき)     宝暦3年10月7日〜安永3年9月8日(1753-1774)

     御三卿田安家2代当主。父、初代当主徳川宗武(五男)。生母、宝蓮院。幼名、寿麻呂・寿丸。元和元年(1764)大蔵卿となり、治察と称す。明和2年(1765)元服し、従三位、兼左近衛権中将。明和8年(1771)家督を相続。妻子なく徳川斉匡が相続するまで、空位となる。実際は8月28日に死亡したが子がなく後継問題があり9月8日に公表となった。天明3年(1783)贈参議。

墓は、寛永寺谷中墓地。田安家墓地の向かって右から3基目。「高尚院殿心月覚嶺大居士」。

徳川斉匡(とくがわなりまさ)     安永8年4月19日〜嘉永元年6月8日(1779-1848)

     御三卿田安家3代当主。父、一ツ橋徳川家2代当主治済(五男)。幼名、慶之助。天明7年(1787)6月13日田安家を襲封し3代当主となる。寛政2年(1790)従三位近衛権中納言兼右衛門督。文化5年(1808)参議。文政10年(1827)従二位権大納言。天保8年(1837)従一位。正室、無量院。

墓は、寛永寺谷中墓地。田安家墓地の向かって右から4番目。「惇宗院殿戒徳巖明大居士」。

徳川裕宮(とくがわひろみや)/無量院     ?〜文久8年(?-1825)

     徳川斉匡の正室。父、閑院弾正尹宮美仁親王。名、裕宮貞子。子、近姫(徳川斉礼室)・静姫・匡時(下記参照)・猶姫(徳川斉荘室)。

墓碑は、向かって右から5基目。「無量院殿寿見阿大姉」。

徳川慶頼(とくがわよしより)     文政11年10月13日〜明治9年9月21日(1828-1876)

     御三卿田安家5代・8代当主。父、3代当主徳川斉匡(九男)。母、篠崎氏。徳川家達の父。幼名、耕之助。3代当主徳川斉匡が徳川家斉の13男斉荘を養子に迎え4代当主としたが、天保10年(1839)に斉荘が尾張徳川家を相続したため、慶頼が5代田安家当主となった。安政5年(1858-1862)8月前将軍徳川家定の遺命で、新将軍徳川慶福(家茂)の後見人として、将軍後見職となったが実権はなかった。文久3年(1863)長男徳川寿千代(6代当主)にを譲り隠居。寛永寺に謹慎した徳川慶喜に代わって徳川家をまとめ、静寛院宮(和宮)らと協力して朝廷との折衝するなど江戸城無血開城に尽力。その後も「江戸鎮撫取締」に任じ新政府に協力。大久保忠寛・勝海舟らと共に、彰義隊を慰撫し、その解散に務める。同年閏4月7代当主の亀之助(のちの徳川家達)が徳川宗家を継ぐことになり、再び8代当主となった。49歳。

墓は、寛永寺谷中墓地。田安家墓地の向かって右から6基目。「有宗院殿贈二位仁譲玄明大居士」。

和楽院     文政5年〜明治39年(1822-1906)

     徳川慶頼の正室。閑院宮孝仁親王(かんいんのみや たつひとしんのう:1792-1824)の第三王女。徳川達孝(下記参照)の母。名、直子・徳川光子、昌宮佳子女王または睦宮佳子。弘化3年(1846)11代将軍徳川家斉の正室広大院の媒介により徳川慶頼に御降嫁。慶頼没後、落飾し和楽院と称す。85歳。

墓は、田安家墓地に向かって右から7基目。「和楽院殿慧光馨徳大姉」。

徳川寿千代(とくがわひさちよ)     安政7年3月11日〜元治2年2月4日(1860-1865)

     御三卿田安家6代当主。父、5代・8代当主徳川慶頼(長男)。生母、側室 高井氏。安政の大獄により隠居の父を継いで3歳で当主となったが、2年後に死亡。5歳。弟の亀之助が継承した。

墓は、寛永寺谷中墓地。田安家墓地の向かって右から8番目。「英樹院殿慧観普明大居士」。

鏡月院(きょうげついん)     明治6年6月2日〜明治26年9月29日(1873-1893)

     徳川慶喜の二女。名、鏡子。母、不詳。明治20年(1887)田安家9代当主徳川達孝(慈光院)に嫁ぐ。21歳。

墓は、寛永寺谷中墓地。田安家墓地の向かって右から9基目。慈光院、慈心院と合祀。「鏡月院殿円明秀麗大姉」。

徳川達孝(とくがわさとたか)     慶応元年5月25日〜昭和16年2月18日(1865-1941)

     伯爵・田安徳川家9代当主。父、徳川慶頼(四男)。兄、徳川家達。徳川頼倫の実兄。母、側室 高井氏。幼名、群之助。号、綱陵対翠。明治元年(1868)兄の家達が宗家徳川慶喜の後継となったのち、明治9年(1876)家督を相続、元服。明治17年(1884)伯爵。明治22年(1889)欧州視察。明治30年(1897-1914)貴族院議員。大正3年(1914)から宮内省に入り、大正4年(1915-1916)皇后宮大夫。大正11年(1922-1927)大正天皇侍従次長・侍従長を歴任。衆議院議員となり、選挙法改正調査会委員。華族会館理事。西村茂樹が組織した「日本弘道会」を継承、会長となる。77歳。正二位勲一等。妻、徳川鏡子(徳川慶喜の娘)。後妻、島津智子(下記参照)。

墓は、田安家墓地に向かって、右から9基目。鏡月院、慈心院と合祀。「慈光院殿仁岳綱陵大居士」。

慈心院/徳川智子     明治8年〜昭和28年(1875-1953)

     田安徳川家9代当主徳川達孝の後妻。薩摩藩12代藩主 島津忠義の四女智子。忠重の姉。長男、徳川達成。長女、須美子。二女、殻子。三女、艶子。四女、?子。「慈心院殿芳雲明智大姉」。墓は、田安家墓地に向かって、右から右から9基目。鏡月院、慈光院と合祀。

徳川達成(とくがわさとなり)     明治32年5月〜昭和36年3月28日(1899-1961)

     田安徳川家10代当主。父、徳川達孝(長男)。母、徳川智子(慈心院)。東京出身。大正12年(1923)海軍造兵少尉。昭和2年(1927)欧米留学。昭和10年(1935)海軍中佐。昭和16年(1941)襲封。夫人、戸田氏秀の二女で、伯爵戸田大直の姉の元子。従四位勲四等。

墓は、田安家墓地に向かって、右から10基目。澄光院と合祀。「顕光院殿成徳陽葵大居士」。

澄光院/徳川元子     明治40年〜平成元年10月20日(1907-1989)

     徳川達成夫人。父、戸田氏秀。名、元子。伯爵戸田大直の姉。82歳。著書:「遠いうた-徳川伯爵夫人の七十五年」。
※ 戸田氏秀(うじひで):伯爵。従四位下采女正。上野国高崎藩主松平輝聲の子。東京帝国大学法科大学政治学科卒。法学士。東宮事務官。墓は、田安家墓地に向かって、右から10基目。顕光院と合祀。「澄光院殿秋桜妙元大姉」。

徳川小次郎(とくがわこじろう)     延享2年〜宝暦3年(1745-1753)

     徳川宗武(上記参照)の長男。母、宝蓮院(上記参照)。8歳。

墓は、田安家墓地に向かって右側端にある3基のうち、奥のもの。徳川宗武墓の前。「孝慈院性山真常大童子」。

徳川匡時(とくがわまさとき)     文化2年〜天保10年(1805-1839)

     徳川斉匡(上記参照)の子。母、無量院(上記参照)、ただし斉藤氏説あり。世子だったが虚弱のため廃される。34歳。

墓は、田安家墓地に向かって右側端にある3基のうち、中央のもの。「霊明院殿実如宗真大居士」または「霊明院殿幽渓義玄大居士」。

徳川喜久(とくがわよしひさ)/玉操院     安政3年9月12日〜慶応元年1月17日(1856-1865)

     徳川慶頼(上記参照)の長女。名、喜久姫。母、高井氏。9歳。

墓は、田安家墓地に向かって右側端にある3基のうち、通路(手前)側のもの。「玉操院春光妙瑞大童女」。

徳川武子・観客院     天保9年〜明治35年(1838-1902)

     徳川家達・徳川達孝の生母。徳川慶頼 側室 高井氏。名、武子。父、津田栄七(長女)。津田梅子の叔母。高井主水の養女。子、喜久姫・寿千代・紫雲院・家達・達孝・春姫。墓は、田安家墓地に向かって入り口の右側(通路沿い)にある4基のうち、外から見て右側のもの。「観客院翠竹清貞大姉」。

唯心院     寛政6年〜安政5年(1794-1858)

     徳川慶頼の生母。徳川斉匡の側室。篠崎氏。父、武藤三益。養父:篠崎三伯。子、猗姫 ・三千姫・千重姫(松平武成室)・慶頼。 墓は、田安家墓地に向かって入り口の右側(通路沿い)にある4基のうち、外から見て右から2基目のもの。「唯心院妙遠日種大姉」。

嶺松院     天保13年〜大正2年(1842-1913)

     徳川慶頼の側室。子、隆麿・鎮姫(酒井忠篤室)・鏡姫・紀伊和歌山徳川頼倫。 墓は、田安家墓地に向かって入り口の右側(通路沿い)にある4基のうち、外から見て右から3基目のもの。「嶺松院清節姉操大姉」。

【以下、合祀墓】

裕姫/随縁院     寛保3年(1743-1743)

     徳川宗武(上記参照)の二女。生母、宝蓮院(上記参照)。「随縁院幻夢空叔大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓(計30霊)。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川銕之助/徳川英菊     延享4年〜宝暦2年(1747-1752)

     徳川宗武(上記参照)の二男。生母、宝蓮院(上記参照)。「瑞光院英樹智明大童子」。

徳川友菊     延享4年〜宝暦3年(1747-1753)

     徳川宗武(上記参照)の三男。生母、側室 山村氏。「本寂院湛園亮性大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川乙菊     宝暦2年(1752-1753)

     徳川宗武(上記参照)の四男。生母、側室 毛利氏。「瓊樹院本智光栄大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

光慈院     宝暦5年(1755)

     徳川宗武(上記参照)?の?男。生母、不詳。「光慈院性山真常大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川剛之丞/倫脱院     寛政11年〜寛政12年(1799-1800)

     徳川斉匡(上記参照)の長男。生母、側室 筧氏。「倫脱院真乗了薫大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

包姫/瑶温院     寛政12年〜享和元年(1800-1801)

     徳川斉匡(上記参照)の長女。生母、側室 筧氏。「瑶温院理乗純園大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

静姫/宝光院     享和3年(1803-1803)

     徳川斉匡(上記参照)の三女。生母、無量院(上記参照)。「宝光院蓮心清影大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

理照院     文化4年(1807)

     徳川斉匡(上記参照)の五女。生母、側室 河合氏。即日死亡。「理照院顕了住因大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

清窕院     ?〜文化6年(?-1809)

     徳川斉匡(上記参照)?の?女。生母、不詳。「清窕院瑶光芳林大姉」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

香詮院     ?〜文化9年(?-1812)

     徳川斉匡(上記参照)?の?女。生母、不詳。「香詮院瑞蓉正聚大姉」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

猗姫/浄潭院     文化8年〜文化14年(1811-1817)

     徳川斉匡(上記参照)の10女。生母、側室 篠崎氏。文化8年(1811)松平(久松)定永の嫡子永太郎と縁組するも未婚。「浄潭院普見覚影大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川謙太郎/明智院     文化11年〜文化14年(1814-1817)

     徳川斉匡(上記参照)の三男。生母、側室 河合氏。「明智院信楽宝心大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

歳姫/善池院     文化13年〜文政元年(1816-1818)

     徳川斉匡(上記参照)の12女。生母、高月氏。「善池院了現順行大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

恒姫/麗容院     文化12年〜文政2年(1815-1819)

     徳川斉匡(上記参照)の11女。生母、高月氏。「麗容院体仁含章大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

三千姫/輝光院     文政元年〜文政3年1月8日(1818-1820)

     徳川斉匡(上記参照)の13女。生母、側室 篠崎氏。「輝光院真性園淳大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

鋭姫/縁理院     文化4年〜文政3年12月17日(1807-1820)

     徳川斉匡(上記参照)の6女。生母、側室 斉藤氏。津軽信順と婚約中に没する。「縁理院心鑑本明大姉」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川聰之助/諦境院     文政7年〜文政8年5月24日(1824-1825)

     徳川斉匡(上記参照)の6男。生母、側室 八木氏。「諦境院元覚円超大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

弥姫/円証院     文政6年〜文政9年1月12日(1823-1826)

     徳川斉匡(上記参照)の17女。生母、側室 高月氏。「円証院真善寂妙大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川郁之助/本量院     文政8年〜文政9年2月7日(1825-1826)

     徳川斉匡(上記参照)の7男。生母、高月氏。「本量院覚明自性大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

至姫/寂照院     文政7年〜文政9年8月16日(1824-1826)

     徳川斉匡(上記参照)の18女。生母、側室 木村氏。「寂照院理明善達大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

勝姫/瑶理院     天保3年〜天保4年7月14日(1832-1833)

       徳川斉荘(一時斉匡の養子となり田安家4代当主となったが、のち尾張家を相続)の長女。生母、側室笹本氏。「瑶理院玉香妙性大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

教明院     ?〜天保9年2月4日(?-1838)

     父母不詳。「教明院真如薫性大姉」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

玉林院     ?〜天保15年7月6日(?-1844) ・・・七 or 十?

     父母不詳。「玉林院養梅心楽大姉」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

紫雲院     文久2年2月21日(1862)

     徳川慶頼(上記参照)の二女。生母、側室 高井氏。即日死亡。「紫雲院明到妙悟大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川隆麿/理光院     文久2年11月12日(1862)

     徳川慶頼(上記参照)の二男。生母、側室 沢井氏。「理光院寒窓智了大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

鏡子姫/空閑院     慶応3年〜慶応4年1月6日(1867-1868)

     徳川慶頼(上記参照)の4女。生母、側室 沢井氏。「空閑院敬信直道大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

春子姫/芳春院     明治元年◇月10日(1868)

     徳川慶頼(上記参照)の5女。生母、側室 高井氏。「芳春院智光妙順大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

徳川興丸/整信院     明治4年3月25日(1871)

     徳川慶頼(上記参照)の5男。生母、側室 高井氏。「整信院元性明善大童子」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。

妙色院     ?〜明治30年10月13日(1897)

     父母不詳。「妙色院養如月王影大童女」。墓は、田安徳川家合祀墓。田安家墓地に向かって入り口の右側すぐ。