徳川家治(とくがわいえはる)/浚明院    天文2年5月22日〜天明6年8月25日(1737-1786)

    10代将軍。在職:1760-1786。幼名、竹千代。祖父は徳川吉宗。父は九代将軍徳川家重。母、藤原通条の娘幸子(至心院)。正室、倫子女王。老中の松平武元(まつだいらたけちか)、後の重商主義的政策の老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)らを使い政治を行い印旛沼・手賀沼干拓の実施、蝦夷地開発などで実績をあげたが、丸投げっぽかったらしい。紀綱の乱れを招き、吉宗の期待に添えなかった。また、天明の飢饉等天災の続出により幕政は退廃するに至悲運の将軍となった。将棋が大好きだった。50歳。贈一位太政大臣。二女に、萬寿姫(乗台院)がいる。

墓は、寛永寺一の御霊屋。