徳川慶久(とくがわよしひさ)     明治17年9月2日〜大正11年1月22日(1884-1922)

    徳川慶喜の第七男・侯爵。旧名、久。母、新村信。池田仲博・徳川厚の実弟。明治35年(1902)慶喜の継嗣に決まり”慶久”に改名。明治43年(1910)徳川慶喜の隠居にともない大正2年(1913)家督を相続。東京帝国大学卒業。貴族院議員。大正8年(1919)赤十字慰問使として渡欧。第一銀行取締役。華族世襲財産審議会会長。贈正三位勲三等瑞宝章。夫人は、実枝子。子に長男徳川慶光、二女喜久子(高松宮宣仁親王妃:1911-2004)、三女喜佐子(伯爵 榊原政春夫人:1921-)は、文筆家。四女久美子(侯爵松平康昌長男松平康愛夫人、夫の戦死後井出次郎夫人:1922-)。長女慶子はゼロ歳で夭折。

徳川実枝子(とくがわみえこ)     明治24年2月24日〜昭和8年4月25日(1891-1933)

     徳川慶久夫人。有栖川宮威仁親王の第2王女。明治41年(1908)11月8日に結婚。直腸癌にて没する。実枝子は有栖川宮家最後の王女だったため、2女喜久子が有栖川宮家の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚した。嗣子、慶光。43歳。

墓は、寛永寺谷中墓地。徳川慶喜墓域内。長女慶子(明治43年1月24日〜明治43年4月2日)墓もある。