渡辺安積(わたなべあさか) 安政6年8月22日〜明治20年2月23日(1859-1887)
英吉利法律学校(中央大学)創設者の一人。幼名、大十郎。山口県岩国出身。父、渡辺九郎兵衛。はじめ郷里にて和漢学と、岩国学校でスティーブンスに英語を学ぶ。明治7年(1874)3月東京に出て東京英語学校・開成学校で予備教育を受け、東京大学で法律学を専攻。明治15年(1882)7月卒業し、法学士となる。日報社員として政治経済関係の社説を書く。明治18年(1885)5月農商務権少書記官、参事院の員外議官補および東京大学御用掛・准講師を兼任。当任官に伴い正七位に叙任。11月肺を患い、郷里にて静養。官制改革により非職を命じられる。明治18年(1885)英吉利法律学校創立に参画し、明治19年(1886)3月東京に戻り同年4月幹事となる。のち、熱海にて加療するも明治20年(1887)2月23日に没する。29歳。
※ 英吉利法律学校創立者の18人は、増島六一郎、高橋一勝、岡山兼吉、高橋健三、岡村輝彦、山田喜之助、菊池武夫、西川鉄次郎、江木衷、磯部醇、藤田隆三郎、土方寧、奥田義人、穂積陳重、合川正道、元田肇、渡辺安積、渋谷慥爾。
墓は、谷中霊園。甲9号18側。さくら通り側。正面「正七位法学士渡辺安積君墓」。