渡辺小華(わたなべしょうか) 天保6年〜明治20年12月29日(1835-1887)
日本画家。名、諧。字、韶卿(韵卿?)。通称、舜治。号、小華・小華道人・小華外史・道復・白陽山人。父、渡辺崋山(1793-1841)(次男)。江戸麹町出身。初め絵を父に習うが、天保12年(1841)7歳で父が自刃。弘化4年(1847)父の弟子福田半香のすすめで、父の門人の椿椿山(1804-1864)に師事し、南画を学ぶ。安政元年(1854)椿山没後は福田半香に師事。経史を大橋訥庵に、漢詩を関根痴堂に師事した。安政3年(1856)長兄が没したため渡辺家を22歳で継ぐ。田原藩家老として、維新後は権大参事として藩務に尽くす。維新時、村上範致・上田畴らと勤王派として行動。花鳥画を得意とし、豊橋での明治10年から15年(1877-1882)は小華の百花園時代と呼ばれ、草花の写生において数多くの優れた作品を残した。明治10年(1877)第1回内国勧業博覧会で「烟草草綿ノ図」が花紋賞受賞。明治15年(1882)東京に移り第1回内国絵画共進会で「蓮」と「鷲」が銅印を受賞。明治17年(1884)東洋絵画共進会審査員など中央画壇で地位を確立する。のち画塾を開き、大橋翠石、宮川春汀(1873-1914)など多くの門弟を指導した。53歳。妻須磨子は、椿山の養女。養子に渡辺華石がいる。
墓は、甲5号1側。谷中霊園管理事務所後方の霊園の隅。正面「小華渡辺先生之墓」。「文雄院諧誉小華居士」。