柳川一蝶斎(やながわいっちょうさい)・3代    弘化4年11月〜明治42年2月17日(1847-1909)

    西洋手品元祖。本名、青木治三郎。父、江戸城御用金物商青木常次郎(二男)。初代の弟で、弟子になり蝶之助と称する。襲名前は柳川蝶十郎。落語家春風亭柳枝に師事。慶応2年(1866)アメリカのベンコツに年千両、2年の拘束で雇われた独楽廻し・軽業師・手品師などの男女14名の中に、柳川蝶十郎がいた。奇遇なことには、この旅芸人の一行は、慶応2年(1866)幕府がはじめてイギリスに送った留学生14名(中村敬輔・外山正一菊地大麓中村正直・林薫たち)と、おなじ船で下等上等船室に分かれて出航している。明治2年(1869)印刷局職工となり、錦集会会長となる。のち、蝶柳斎と名乗る。明治25年(1892)鍋島邸で天覧芸を披露する。明治29年(1896)3代目一蝶斎を襲名。初代快楽亭 ブラック(1858-1923:本名、ヘンリー・ジェイムズ・ブラック。日本名、石井 貎刺屈(いしい ぶらっく))というイギリス人を雇い、西洋奇術をさせていた(時期不詳)。2年間も西欧を旅すれば英語の少しは話せただろうから納得できる。日本橋の自宅で心臓病のため没する。63歳。

※ 初代は文政時代(1818-1829)に活躍し、江戸手妻を完成した。江戸末期の手妻師の流派には、柳川派、吉田派、養老派などがあり、人気手妻師の錦絵も出版された。63歳。

墓は、瑞松院墓地 (谷中1-4-10)。境内墓地。山門より入り右側、塀沿い。正面「三代目/柳川一蝶斎之墓」。