依田 薫(よだかおる)/依田聖里 文政9年〜明治9年11月4日(1826-1876)

    判事。姓、源。字、子威。号、(木篇+聖)里・朝夕楼。父、重次。母、国谷氏。江戸に出て河田貫堂に師事。槍を久留米の井上照算に師事。維新の後、大学権判事。大学少助教。太政官権少史。大主記。左院大掌記。明治5年(1872)橋詰敏・太田卓之らと1等書記生。明治7年(1874)5等議官。正七位。明治9年(1876)7等判事になり、上等裁判所・千葉裁判所に歴任。51歳。

※ 依田学海墓の隣りにあることから、何らかの関係があるように推測されるが、不明。

墓は、谷中霊園 乙3号6側。依田学海墓の隣り。ただし、反対向き。正面「正七位依田子威墓」。成瀬温書・題額、仙石政固撰文、広群鶴刻の墓碑銘がある。