横田国臣(よこたくにおみ)    嘉永3年8月9日〜大正12年2月22日(1850-1923)

    検事総長・男爵。号、独老・独庵。父、島原藩士横田宗雄(長男)。豊前国宇佐郡横田村(長崎県)出身。横田四郎の嗣となる。天領日田(大分県日田市)にあった「咸宜園(かんぎえん)」に学ぶが、のち、慶応義塾に学ぶ。はじめ埼玉県に出仕して教務に携わる。転じて、明治9年(1876)司法省12等出仕。検事補より明治13年(1880)検事に任ぜられる。以後、司法省権少書記官・統計委員・参事院員・元老院議官補・司法少書記官を歴任。明治19年(1886)欧州に私費留学し法律を学ぶ。翌年帰国。東京控訴院検事。明治23年(1890)再び欧州に出張。明治24年(1891)帰国して東京控訴院検事に再任。ついで司法省参事官。明治25年(1892)民刑局長。明治29年(1896)司法次官。明治31年(1898)検事総長となるが、ときの法務大臣大東義徹と衝突し、懲戒免官。その間東京帝国大学法科大学に刑法を講義。明治32年(1899)東京控訴院検事長。明治37年(1904)検事総長に復活。明治39年(1906)大審院長となり15年間勤める。明治40年(1907)法学博士。大正4年(1915)男爵。正二位勲一等。民法・刑法の改正・実施に尽くす。74歳。著書:「治罪法講義−明治13年」、「法律哲学」、「独庵哲論」。

※ 咸宜園:広瀬淡窓が1807年に開塾した日本最大規模の私塾で、門下には、蘭学者の高野長英、近代軍制創始の大村益次郎、近代の学制確立をした長三州、かの勝海舟榎本武揚、坂本龍馬の写真を撮影した日本写真の開祖上野彦馬、総理大臣になった清浦奎吾などがいる。
※ 初代大審院長は玉乃世履

墓は、乙10号6側。正面「大審院長判事正二位勲一等法学博士男爵横田国臣/ヮq 墓」。傍らに正面「従七位横田國臣室春和子之墓」という墓碑がある。明治13年5月12日歿、享年16歳と記されている。なお、国臣の妻(禎)子の父の豊都栄(とよつさかえ)墓も近くにある。国臣の弟横田五郎の墓は、甲5号6側にある。