吉井正澄(よしいせいすい/まさずみ)     天保2年9月28日〜明治14年5月27日(1831-1881)

    工部省灯台頭。名、正澄。通称、源馬。父、吉井駒太。高知県出身。幕末、三条実美公らが筑前太宰府に幽閉されていたころ、同行した土方久元を追って行き数カ月間滞在し、土方の活動を助ける。王政復古の後、朝廷により逃亡罪を赦される。明治のはじめ長崎府員を経て佐渡県判事・刑法官権判事。明治2年(1869)民部省設置と共に監督正に任じ、従七位。民部少丞従六位、兵庫県事本官兼大阪府権大参事。明治4年(1871)民部省が廃しとなり工部少丞、大丞に転じ従五位。のち灯台頭。子が無く、吉井茂則を養嗣子とする。東京駿河台で没する。51歳(碑文は49歳)。夫人は、長崎出身、鶴田氏。

※ 灯台頭: 明治3年(1870)西洋式灯台の整備のため灯台関係の事務が工部省灯台掛に移され、翌年灯台寮に昇格。そのトップ。初代は、伯爵佐野常民。

墓は、谷中霊園 甲3号7側。正面「従五位吉井君墓表」。来歴あり。篆額は、太政大臣従一位勲一等三條実美。撰文は、内務大臣従四位勲二等土方久元。書は、日下部東作

※ 三条実美(さんじょうさねとみ:1837-1891): 幕末から明治の公卿。過激的攘夷派の公家で、文久2年(1862)に勅使の一人として将軍徳川家茂に攘夷を迫る。文久3年(1863)8月の政変で朝廷を追われ(7卿落ち)、長州へ移りのち太宰府に幽閉され3年間を送る。慶応3年(1867)の王政復古で政界に復帰。

※ 土方久元(ひじかたひさもと:1833-1918): 幕末から明治の志士。文久3年(1863)の政変で、三条実美に従い、太宰府に逃れる。坂本龍馬らと連携し薩長同盟の仲介に尽力。

※ 日下部東作(くさかべとうさく:1838-1922): 日下部鳴鶴の名の方が有名。明治の三筆のひとりで、「日本近代書道の父」といわれる。維新後内閣大書記官のときに仕えていた大久保利通が明治11年(1878)に暗殺されたのを機に書道に専念した。したがって、当該碑が明治15年5月の作であるから、まだ号がなかったのか本名の”日下部東作”名となっている。なお、渋沢栄一とは、昵懇であった。