広津柳浪(ひろつりゅうろう)/広津直人(ひろつなおと) 文久元年6月8日〜昭和3年10月15日(1861-1928)
小説家。本名、広津直人。幼名、金次郎。号、蒼蒼園。肥前国(長崎市材木町)出身。父、久留米藩士で医者の広津俊蔵(弘信)(二男)。明治2年(1869)肥前国田代で2年間漢学を学ぶ。明治7年(1874)東京に一家で出る。番町小学校、外国語学校、帝国大学医科大学予備門に入学するも病気となり中退。大阪商業会議所書記。再上京し明治14年(1729-1723)農商務省勤務。父の死明治16年(1883)後生活が荒れ、明治18年(1885)官を辞ししばらく放浪し生活に困窮する。明治20年(1887)友人山内愚仏の勧めで初めて小説「女子参政蜃中楼」を書き、「東京絵入新聞」に執筆し注目される。明治21年(1888)「博文館」に入社、「大和錦」の初号に言文一致体小説「ふたおもて」を発表。明治22年(1889)尾崎紅葉の「硯友社」同人となり、川上眉山と3人肩を並べ、「我楽多文庫」に創作を発表。28歳で蒲池寿美子と結婚。以後、多数のメディアに執筆。明治28年(1895)ころに文名があがるようになる。明治39年(1906)ころから文壇を遠ざかり、通俗小説を新聞に連載。明治末期には、ほとんど執筆活動はしていなかった。心不全で没する。68歳。著書:「今戸心中」、「変目伝」、「昇降場」、「黒蜥蜴」、「河内屋」、「二人やもめ」など、とく下流階級の生活に題材をとる。子に広津和郎がいる。孫に、広津桃子がいる。門下生に、永井荷風・中村吉蔵・中村春雨らがいる。
※ 松井柏軒の書には、「広津柳浪の家は、団子坂から上野の山に至る道筋にあり、門から奥が田圃で、その中に茅葺の屋根の瀟洒な二階家があり、堀抜きの井戸にはこんこんと水が湧き、いかにも閑静で風雅な住まいだった」とある。また、江見水蔭は、「みかん箱を逆さにして机の代用とし、窮乏のうちに傑作を書いた」と記している。
墓は、谷中霊園乙8号10側。田中芳男墓の隣り。正面「柳浪広津直人墓」。「蒼々院釈績文卿柳浪居士」。