神原護国(かみはらもりくに)     文政元年〜明治18年1月6日(1818-1885)

    漢学者・僧侶。名、精・精二。通称、茂行のちに養道。号、護国。沼隈郡金見(広島県)出身。山路機谷に学び養われてその義弟となる。ついで森田節斎に師事。江木鍔水阪谷朗?・宮原節庵・高橋西山らと交流。のち、福山の安楽寺に入り僧侶となり、学道・円海と称する。のち、江戸の増上寺に入る。明治3年(1870)南部藩に呼ばれ還俗して南部藩士となり、経済を立て直す。東京本郷丸山(湯島)に「共慣義塾」を開く。また、教部(宗教関係の官庁)中録に任ず。岩代安積郡の開墾に尽力。68歳。

墓は、天王寺墓地。甲9号18側横通路を入り突き当り。題額「護国神原居士墓表」。墓誌は、堤正勝撰文。広群鶴刻。