小花作助(おばなさくすけ)    文政12年2月24日〜明治34年1月17日(1829-1901)

    初代小笠原諸島出張所長。名、邦孚。通称、作之助・作助。号、白香。旗本の家に生まれる。小笠原諸島が無人のままとなっていたため外国人が居住してしまったため、幕府はこれの回収を図る。文久1年(1861)外国奉行水野忠徳と共に咸臨丸で小笠原諸島に渡島し、日本領であることを宣言。作助は、八丈島の移民30名と共に現地に残り、島務を管理した。1年後外交方針が変わり、開拓中止となり移民と共に引き上げる。慶応元年(1865)外国奉行柴田日向守が特命理事官としてフランス・イギリスに派遣された際に随行。この一行には、水品楽太郎・冨田達三・塩田三郎福地源一郎・岡田摂蔵などが加わる。慶応2年(1866)帰国。慶応3年(1867)外国奉行支配調役並から調役に進む。明治元年(1868)町奉行支配調役。新政府となり、東京開市場御用掛。明治2年(1869)東京開市場調役・東京府権大属。明治5年(1872)東京府権典事。明治8年(1975)内務省地理寮7等出仕、工部省の「明治丸」で小笠原に渡り、管理を再開。外国島民に対し再回収をする。明治9年(1876)内務省管轄となり、内務省権少丞となり、小笠原諸島出張所長となる。明治10年(1877)11月聟島を巡視し、アホウドリの群生を報告している。73歳。長男、小花万次。三男、小花冬吉。四男?、小花春吉。五男?、小花三吾。著書:「小笠原島在勤筆記」、「小笠原島略記」。

墓は、谷中霊園乙3号3側。舗装通路より2基目。説明板あり。正面「小花作助墓」。「寮源院殿誠惠忠士大居士」。平成2年都旧跡となる。