鏑木清方(かぶらききよかた)    明治11年8月31日〜昭和47年3月2日(1878-1972)

    挿絵・日本画家。本名、健一。号、清方・渓水・象外。父、戯作者で「やまと新聞」の創始者でもあった條野採菊。祖父、條野忠胤。はじめ柴田是真に学ぶ。明治24年(1891)14歳で挿絵画家水野年方に師事。明治26年(1893)清方の号を受ける。明治27年(1894)年方が描いていた「大和新聞」の挿絵を引き継ぎ、明治29年(1896)「東北新聞」・「九州日報」などの新聞挿絵を制作。明治28年(1895)母方の家督を継ぎ、鏑木姓となる。明治32年(1898)「人民新聞社」に、ついで「読売新聞社」に入社し、挿絵を担当。「新著月刊」・「新小説」・「歌舞伎」の挿絵を担当。明治30年(1897)泉鏡花(1873-1939)・尾崎紅葉(1868-1903)・島崎藤村(1872-1943)など多くの著名作家たちの口絵や挿絵を描いて活躍し、有名となる。一方、肉筆では明治30年(1897)日本絵画協会第2回絵画共進会に初出品して以来同会に出品。明治34年(1901)山中古洞・鰭崎英朋・都筑真琴・池田輝方らと「烏合会」を結成し、「金色夜叉」、「一葉女子の墓」、「深沙大王」などを出品し、江戸文学・浮世絵の伝統に新しい風俗画の創作を行った。明治40年(1907)文展開設時に新派による「国画玉成会」の結成に参加、評議員となる。明治後期から大正初期にかけ「鏡」、「女歌舞伎」、「朝顔と駅路の女」、「かろきれつ」、「墨田河舟遊」、「晴れ行く村雨」、「黒髪」、「ためさるる日」などを出品。大正5年(1916)吉川霊華・平福百穂(ひらふくひゃくすい)・結城素明・松岡英丘・田口掬汀らと「金鈴会」を結成、「薄雪」、「雨月物語」などを発表。大商8年(1919)より第1回帝展から審査員を務める。昭和2年(1927)帝展出品「築地明石町」が帝国美術院賞を受賞。昭和4年(1929)帝国美術院会員。このころ「三遊亭円朝像」など人物画・美人画を残している。昭和7年(1932)神宮聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」を完成。昭和12年(1937)帝国芸術院会員。昭和19年(1944)帝室技芸員。昭和29年(1954)文化功労賞・文化勲章を受章。文筆にもすぐれ、「こしかたの記」、「続こしかたの記」、「銀砂子」、「築地川」、「褪春記」、「蘆の芽」、「御濠端」、「柳小紋」など多くの随筆を著わす。門下に伊東深水(いとうしんすい:1898-1974、女優の朝丘雪路の父)がいる。晩年は鎌倉市雪の下に住んだが、跡には「鎌倉市鏑木清方記念美術館」が建てられた。

※ ちなみに、「築地明石町」のモデルは、江木鰐水の息子で写真館を営んでいた江木保男の再婚相手のえつ子の妹江木ませ子

※ 母婦美は、祖父鏑木忠胤(?-1877)の娘で、祖母は、鉄砲洲稲荷神社の神主の娘。築地明石町は鉄砲洲のすぐ近くにある。鏑木家は、代々宮司で、浅草第六天神(現、蔵前の榊神社)や鳥越神社の神主であった。鏑木家は、千葉宗家の支流で、鏑木正胤(1614-1659)は、千葉権介俊胤の二男で、寛永5年(1628)に浅草第六天神の神主になった。以後、鏑木正重(1647-1690)・鏑木正義(1675-1736)・鏑木慶寛・鏑木崇(1740-1806)・鏑木栄(1765-1821)・・・と続く。これらの一部は、乙8号10側の「鏑木家之墓」に合祀されている。

鏑木清方
墓は、谷中霊園乙13号左3側。ひょうたん横丁通りに面する。正面「鏑木家之墓」。水野年方墓は、ひょうたん横丁を挟んで反対側にある。