河鰭景岡/河鰭監物     文化15年2月22日〜明治29年4月9日(1818-1896)

    浜田藩家老。字、伯鳳。通称、源之丞のち監物。号、桐園。致仕して舒嘯斎あるいは狂叟・望岳老人と称す。父、河鰭景行。母、一色氏(?-1854)。河鰭斎と河鰭敦の父。浜田藩主松平公の世臣。先祖は、播磨国の梶原氏。館林城中に生まれる。文政7年(1824)8月7歳にして父景行を亡くし、弟2人と共に母一色氏の手に長ずる。天保5年(1834)1月15日御給人に召し出され30石を賜う。天保6年(1835)御側勤め。天保7年(1836)5月5日江戸勤務となり10月8日江戸に着く。天保8年(1837)1月御使番席御取次、同5月御使番。天保9年(1838)2月同藩御用人渡辺卯兵衛の長女婉を娶る。天保12年(1841)閏1月御物頭となり浜田への引っ越し役となり、3月18日江戸を発し、30余日で浜田に着く。弘化2年(1845)社倉掛。新領地内各村々を巡視し14000の人民が餓死に瀕している現状を知り、急ぎ救済するよう建議する。財政困難で老臣らは難色を示すも、説得し遂に策を実施する(文政2年に将軍、徳川家斉の19男徳之助を養子に賜ったときに莫大な費用がかかった)。弘化3年(1846)銀札場掛となる。当時の風習では、財務に携わることは賎しいこととされていて、景岡も好まざることであったが、難局に当たらんと決心する。それ以降、財政改革や物産の振興・桑茶の栽培・鉄鉱の採掘・幽原の開墾・治水をし、藩士の減禄をするなど諸策に明け暮れる。元治2年(1865)家老職を仰せ付けられるも、再三固辞する。しかし、京より主君(松平武聡)の兄一橋公(徳川慶喜)から長文の手紙を賜り要職に就くことを受ける。慶応2年(1866)幕府は再び長征令を発し、徳川慶喜公の京・大阪への移動に赴く。長州軍は、戦わずして陥ちた津和野藩を駆け抜け直に攻め込み、隊長伊藤梓らが討ち死にし、藩主松平武聡は朝敵となった。この結果、尾関隼人城代の切腹により他は赦免され、謝罪の実行が認められて復禄の恩典に浴す。この切腹は、景岡の発意であったという。ときに52歳。明治2年(1869)琵琶湖開拓を建言し、西郷隆盛・大久保俊通は、喜んだという。明治4年(1871)廃藩置県のため東京に移る。明治11年(1878)頃、清国の飢餓の惨状を聞き、我が国慈善の有志者と義援金を募る。79歳。

墓は、谷中霊園 甲14号右1側。正面「河鰭景岡之墓」。旧仙台藩儒員千仭撰文・河鰭斎書の碑がある。また、「旧浜田藩殉難諸士碑」が善性寺墓地にある。