近藤鎮三(こんどうやすぞう) 嘉永2年〜明治27年8月4日(1849-1894)
「体育」という言葉を作った人・明治初期のドイツ語学者。名、鎮三。通称、昌綱。東京本郷出身。静岡県士族。父、旗本近藤庫三郎(長男)。文久3年(1863)開成所に学び、優等生となる。元治2年(1865)箕作奎吾・田中周太郎・内田称太郎・外山捨八・乙骨太郎・伊藤祐太郎らと開成所教授手伝並出役。文部中助教。岩倉使節団に田中不二麿の随行員となる。アメリカ・イギリス・オランダ・ドイツを回る。明治5年(1872)語学力を買われドイツ公使館勤務。明治7年(1874)帰国。文部省御用掛。教育雑誌にドイツの教育論文をたくさん翻訳。のち司法省に異動。調査のためドイツ留学。明治19年(1886)東京始審裁判所分局検事。横田國臣・高木豊三・加太邦憲・一ノ瀬勇三郎・応当融・ほか6名らとドイツ留学。ドイツ語のできた近藤鎮蔵は、ただちにベルリン大学に入学し、他の者は1年遅れとなった。子は、近藤銕次。従五位勲六等。妻、稲。46歳。著書:「欧米回覧私記」。翻訳:クレンケ:原著「母親の心得」。
※ 「体育」:明治9年(1876)に文部省の「教育雑誌」の中で、近藤鎮蔵が初めて使用した。
※ 明治18年(1885)第1次伊藤内閣の文部大臣森有礼が、本省のスリム化のために、他省の官僚や大学教授で文部省御用掛を兼任している者を罷免したが、このメンバーは、農商務大書記官兼文部省御用掛前田正名・司法少書記官兼文部省御用掛近藤鎮三・東京大学教授兼文部省御用掛小中村清矩・同南摩綱紀・東京大学予備門教諭兼文部省御用掛寺田勇吉である。
※ 近藤鎮蔵邸は、長明寺からほど近い谷中コミュニティセンター前の台東区の防災広場のところにあった。
墓は、長明寺墓地(谷中5-10-10)。低地側墓地、鐘楼横近く。正面「智心院殿浄政日鎮居士/浄光院殿妙義日鑑大姉」。