松岡時敏(まつおかときとし) 文化11年〜明治10年11月6日(1814-1877)
設立当初の元老院議官。幼名、敏。通称、七助。字、欲訥。号、毅軒・毅堂。土佐高岡郡日下村(高知県)出身。父、松岡甚吾。幼少より天才といわれ、高知城下に出て、のち江戸に遊学して安積艮斎(あさかごんさい)に経史を学ぶ。安政のころ吉田東洋の支援を受け山内容堂の侍読となり、藩国の法典「海南政典」の作業にあたる。徳川慶喜を擁護し活動。明治元年(1868)徴士となり、学校権判事・大史になり、学校制度の関係に従事。大学大丞。明治5年(1872)細川潤次郎・伊丹重賢らと左院2等議官。小野湖山・鷲津毅堂らと交流し、「旧雨社」を興して作詞の趣味に興じた。明治8年(1875)元老院の設立当初の議官12名のうちの一人。12名とは、勝海舟(辞退)、副島種臣(辞退)、山口尚芳、鳥尾小弥太、三浦梧楼、津田出、河野利鎌、加藤弘之、後藤象二郎、由利公正、吉井友実、陸奥宗光、松岡時敏。しかし、人選は順調に決定されたものでなく、板垣退助と木戸孝允とが対立し,板垣が佐々木高行・松岡時敏らを拒否,副島種臣・後藤象二郎を推薦,岩倉具視・島津光久らは井上馨・後藤象二郎・由利公正・陸奥宗光・加藤弘之に反対だった。64歳。
墓は、谷中霊園乙5号2側。ブロック中程。高松凌雲墓の隣り。正面「故議官従四位松岡時敏墓」。「観律院諦心紹音居士」。夫人墓(写真左)もある。墓前の石灯篭の竿に黒田清綱・佐野常民・津田出・中島信行・細川潤次郎らの議官の名が見える。