奥宮慥斎(おくみやぞうさい)/奥宮正由(おくみやまさよし)    文化8年7月4日〜明治10年5月30日(1811-1877)

    幕末明治維新期の儒学者・陽明学者・神道学者・禅学者。名、正由。字、子道。号、慥斎・晦堂。通称、忠次郎・周次郎。父、奥宮正樹金谷。土佐出身。田内菜園に国学・歌道を学び、剣を土方半左衛門に学ぶ。初め儒学を岡本寧浦に学ぶが、のち文政13年(1830)ころ江戸に出て佐藤一斉の門に入り、「愛日楼塾」で陽明学を3年間学ぶ。帰国後、「蓮池書院」を開く。安政元年(1854)の秋、江戸詰めとなった折に後の三菱財閥の創業者岩崎彌太郎を初めて江戸に連れて行った。安政6年(1859)土佐藩校「致道館」教授。また、藤森天山・塩谷宕陰・羽倉簡堂ら儒人や、大石弥太郎・武市半平太など憂国の志士と交わり、時勢を痛論、時折建白した。明治に入り政府の教部省に勤務。大教院・大講義などを歴任。晩年は実学・神道・禅を尊び、門弟には中江兆民・島本仲道・長岡健吉らがいる。板垣退助・古沢滋小室信夫古沢滋らの起草した「民選議院設立建白書]を修正潤色した人でもある。子に板垣退助の自由党に入り自由民権運動をし、大道事件を起した奥宮健之(たけゆき)がいる。著作:「周易私講」、「聖学問要」など。
※ 勝海舟や大久保利通とは知りあいで、井上毅は、奥宮の隣りに住んでいたという。

墓は、谷中霊園乙4号1側。正面「奥宮正由墓」。乙4号は6側まで高地低地の2セットあり、高地(上)側の1側。生誕日も墓誌に記載がある。奥宮健之の墓は見当たらない。