山口鋭之助(やまぐちえいのすけ)     文久2年2月9日〜昭和20年3月4日(1862-1945)

    理学博士・学習院院長。父、旧松江藩山口軍兵衛(三男)。東京出身。日本銀行監事の山口宗義の弟。建築家の山口半六の弟。第一高等中学校教諭を経て明治30年(1897)京都大学教授。学習院教授。文部省派遣により、ドイツ・フランスに留学。明治34年(1901)理学博士。明治38年(1905)学習院次長、のち菊池大麓に続き9代学習院院長。明治40年(1907)宮内省図書頭・諸陵頭を歴任。のち、宮中顧問官となる。功玉社理事。東京帝国大学教授。昭和6年(1931)正三位勲一等瑞宝章。帝室図書の近代的分類や陵墓の管理につくす。84歳。妻、藤沢利喜太郎の妹その子。二男、山口進六(1906-1969)は、陸軍大尉。進六の妻山口泰子は、陸軍大将阿部信行の2女。著書:「祭政一致の制度」、「皇道教学」、「普通教育物理学」、「物理学術語和英仏独対訳字書」、「陵の祭と陵の神の宮」、「山陵の研究」。

※ エコロジーの先駆者である本多静六の「神宮の森」造りの計画が進んでいるとき、宮内省の山口鋭之助は、本多の計画に賛同し「神宮の森の完成後は、樹林内に人を入れないこと、落葉をはき集めたり、焼き捨てることなく、自然状態に溜めおくこと」を強く要望したという。

墓は、寛永寺谷中墓地。乙13号右側下。藤岡市助墓並び。渋谷米太郎墓と同墓域。正面「山口家之墓」。