八杉利雄(やすぎとしお) 弘化4年〜明治16年1月30日(1847-1883)
一等軍医正・我が国最初のリウマチ学単行書の訳編者。本姓、朝倉。父、津和野藩士朝倉忠左衛門。同藩の八木利義の養子となる。長門萩で漢学を学ぶ。ついで、江戸・大坂でも遊学。明治2年(1869)和野藩「養老館」から、貢進生として大学東校(東寮生)(当時の校長:佐藤尚中、教授試補:長谷川泰、東寮長:石黒忠悳、大教授:松山棟庵(棟庵はシーボルトの弟子で利雄の英語教師)大学に入り、少得業生から中得業生となる。明治5年(1872)オースチン・フリントの「リウマチ論」を翻訳する。明治6年(1873)文部省9等出仕。明治7年(1874)陸軍2等軍医正となり、初代軍医総監、陸軍本病院付属第2課勤務。この頃初代軍医総監松本順と知り合う。また元沼田藩主土岐頼知の別邸の華麗な催事・歌会等で村松玄庵の二女春子と出あい結婚する。結婚後は、別邸内に住む。春子の父は、沼田藩医であり、祖父は、沼田藩家老だった。明治11年(1878)西南戦争後の大阪臨時陸軍病院で傷病兵を治療。このとき、軍医監佐藤進・一等軍医正石黒忠悳と同職場となる。明治14年(1881)陸軍本病院治療課長となり、部下に森鴎外(林太郎)が配属となっている。のち、1等軍医正。明治15年(1882)東亜医学校の設立に貢献。明治16年(1883)熊本鎮台陸軍病院長。熊本より会議のため上京中に脳溢血を発症し急死。37歳。春子は長男八杉貞利を産むとすぐに没する。後妻に五月女氏を娶り、2男1女を得るが、貞利のみ残る。訳書(共訳):「僂麻窒斯新論」、「医事表」、「医用化学」、 藤田正方と「新纂医用化学」を共訳。
墓は、谷中霊園 乙2号3側。村松玄庵墓の向かい側の垣根の中。正面「一等軍医正六等勲四等八杉利雄之墓」。養母八杉節子は、夫利義の墓と利雄の墓を別にすることを忍びず、合祀とした。妻春子墓に並ぶ。春子の両親と姉の村松志保子墓は、通路の向かいにある。