津梁院(しんりょういん)     創建:寛永13年(1636)

場所: 台東区上野桜木1-14-29 アクセス: JR鴬谷駅北口下車。谷中方面に進み、JR跨線橋(寛永寺橋)を越え、信号の辺りから約150mにある養寿院の角を左に曲がった突き当り。

     東叡山寛永寺津梁院。天台宗。本尊:阿弥陀如来木像。寛永寺36坊の一つ。寛永初期の津軽土佐守伸義(陸奥弘前藩主3代目)の建立で、この際に先代の信枚の遺骸を浅草常福寺から移し、信枚の法名「津梁院殿権僧都寛海」にちなみ寺号とする。権大僧都本祐を開基とする。延宝8年(1680)巌有院(4代家綱)霊廟を建てた折に別当となる。のち浚明院(10代家治)、温恭院(13代家定)、孝恭院(10代家治嫡子家基)霊廟の別当。元禄16年(1703)火災に遭い、翌年再建。宝永6年(1709)常憲院霊廟建立のため、現言問通りの寛永寺坂(現JR跨線橋)にかかる手前、東(橋)に向かって左手一帯(上野桜木50番地)に移転。慶応4年(1868)戦禍により烏有となる。明治3年(1870)津軽承昭により再建される。昭和20年(1945)戦火に遭い焼失し、昭和23年(1948)寒松院も焼失して移転した跡(現在地)に再建。現在墓所は、門前のものと、第2霊園が、言問通り寛永寺坂上のジョナサン裏にある。また、津梁院管轄の津軽公の墓所が谷中霊園に接してある。さらに、津軽公の墓所入り口から見て左側の石塀の外側(乙12号10側)にも、7基の近衛家関係の墓があり、すべてに「宿坊 津梁院」と記してある。これらのことからも、この辺り一帯が、かつて津梁院の寺領であったことが伺える。

下記のお墓がある。

日本画家吉川霊華
最後の琉球王尚泰の孫の侯爵尚昌(しょうしょう)
津軽伯爵家の分家・男爵津軽楢麿
陸奥国黒石藩の第4代(最後)の藩主津軽承叙の長男津軽承叙・津軽類橘
陸奥弘前藩10万石津軽家当主津軽信枚
陸奥弘前藩10万石津軽家当主津軽信寿・津軽信寧・津軽信明・津軽寧親・津軽信順・津軽順承・津軽尹子・津軽承昭

谷中霊園乙12号10側にある津梁院のものと思われるもの

近衛忠房の保母となった近衛家老女生源寺節子
公卿近衛忠煕の側室三善茂子、ほか女性のもの5基。