上野公園は、美術館や博物館のある高台と不忍池のある低地の部分に分かれている。上野公園の成り立ちについては、「上野公園ツアー」の冒頭で述べるとして、当ページでは不忍池とその周辺、池之端と呼ばれる地区を含めて紹介する。特に平成16年(2004)より、元三菱財閥の邸宅だった旧岩崎邸庭園が平成13年(2001)10月に一部公開されたが、平成15年(2003)に全面的に修復が完了し公開されたので、ツアー価値が高まった。
    一筆書きの要領で案内するようにしているが、そのため回りきれない所や戻る所も出ることをご理解いただきたい。なお、少しコースから離れるためにツアーの中に入れられなかったところに「森鴎外居跡」(現、ホテル水月内。03-3822-4611)がある。動物園通りをモノレール下を動物園に沿って3・4分歩いて行くとあるので時間がゆるせば是非見学したいところである。また、天然温泉「鴎外温泉」があり、一風呂浴びることができる。また、通り向かいには江戸千家の祖川上不白の建てた「一円庵」(都重宝文化財・昭和37年)があるが非公開。川上不白の墓は、谷中安立寺にある。

不忍池付近

   不忍池周辺の当ツアーは、湯島から始め下町風俗資料館で終わる。地下鉄千代田線湯島駅前の湯島交差点から春日通りを30mばかり西(登り側)に行き路地を右に入る。池之端文化センターのビル(建替え工事中)の前の教證寺には、柳瀬美仲の墓がある。すぐ先左側に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の住んだ旧岩崎邸庭園への入り口がある。入り口から坂を登ると切符売り場がある。ここまでは無料で入れる。

   旧岩崎邸庭園を出て左に行くと小さな交差点がある。旧岩崎邸庭園に沿って無縁坂がある。直進すると中華レストラン東天紅の裏手に六阿弥陀五番がある。江戸六阿弥陀の五番目だ。この先ホテル・ソフィテル東京(工事中)裏のT字路の左側には、境稲荷神社があり裏手に弁慶鏡がヶ井戸がある。

   まっすぐに東京大学裏手に沿って行き次のT字路を右に行くと、大正寺(開国派の幕臣:川路聖謨墓)正慶寺(江戸期の歌人:北村季吟墓)妙願寺(江戸前期の浮世絵師:鳥居清信墓)七倉稲荷神社妙極院(江戸後期の剣術士:樋口定伊墓・江戸中期の僧侶:浄厳律師墓)などがあるが、興味があるなら行って表通り(不忍通り)を戻って来ればいい。そのままT字路を曲がらずに暗闇坂方面に行くと、立原道造美術館竹下夢路美術館がある。これらは文京区となり当ツアーに含まれていない。
    これらを省略するなら、ホテル・ソフィテル東京(菊竹清訓の設計で五重塔をイメージしたもの)裏のT字路を右に曲がり脇を通り不忍通りへ出る。目の前は不忍池だ。信号を渡らずに不忍通りを右に曲がるとバス停のところに明治・昭和前期の日本画家横山大観記念館がある。

   不忍通りの信号を交番の側に渡って、池畔を右に行き蓮池の手前を左に折れると、両側が池の桜並木道となる。水鳥が餌をねだって集まってくる。ボート小屋のところで右に小さな橋をわたると、弁天堂の裏手に出る。

カナリア碑
   弁天堂の正面の参道は、縁日には屋台が出て賑わう。弁天堂裏手側の池畔に不忍池の蓮花を詠んだ蓬花の歌碑がある。漢詩とともに「色々に花はさけどもくれ竹の それにもまして蓬のしら糸」とある。この碑は文政11年(1828)司馬乃屋嘉明が建立。弁天堂をお参りしよう。手水鉢の天井に谷文晁の龍の絵がある。レストラン桜木亭の手前を池に沿って右に折れると、「歌を忘れたカナリアは…」の童謡で知られる西条八十のカナリア碑がある。裏面の記述も読もう。池畔には多くの碑がある。「めがね」だの「ふぐ」だの20以上はあるだろう。どんなものがあるのか見て歩くのも一興。池畔を行くが、池と反対側のビル裏には都電が走った専用軌道があった。都電は忍ばず通りに交わるまで信号もなく軽快に走った。途中、現在は動物園の通用門となったところに動物園前の停留所があった。話しを戻そう。さらに池畔を進むと広小路寄りに下町風俗資料館がある。
拝観料を払ってここまでをゆっくりと観ると、殆ど一日かかる。

レストラン:旧岩崎邸隣りの池之端文化センター、横山大観記念館近くの東天紅やホテル(ソフィテル)がお薦め。贅沢だとお考えの方は、事前にコンビニ(ソフィテルの隣にもある)でお弁当を購入し、池畔のベンチで摂られてはいかがか。なお、弁天堂から動物園通りに出る手前には、桜木亭がある。動物園通りには、映画館の並びに多くの飲食店が軒を連ねている。
公衆トイレ:教證寺の裏手(不忍池側)、不忍池畔の動物園爬虫類舘寄り、弁天堂から動物園通りに出た辺り、水上音楽堂西側、下町風俗資料館付近にある。

柳瀬美仲墓

(1) 柳瀬美仲墓・教證寺

   柳瀬美仲(やなせびちゅう:貞享2年〜元文5年:1685-1740)は、江戸時代中期の歌人(男性)。遠江国浜松の生まれ。号は隠江翁。京都で武者小路実陰師事。著書には「秋夜髄筆」などがある。
門から真っ直ぐに入り、突き当たり辺りにある。右側面に歌が刻まれている。
    はつせ路や 初音聞かまく尋ねても
        まだこもりくの山ほととぎす
また、墓石正面には「隠口先生美仲甫之墓」と刻まれている。
なお、門前に東京都教育委員会が作った立て札の生誕年を「宝永」としているが、56歳で没したとあることから、西暦記載の方が正しく、これから「貞享2年」の誤りとわかる。


(2) 旧岩崎邸庭園

旧岩崎邸庭園入口

   三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が住んだ邸宅で、明治29年(1896)竣工。洋館とビリヤード室は昭和36年(1961)に重要文化財の指定を受け、昭和44年(1969)には、和館内の大広間と洋館の袖塀1棟が追加指定を受けた。設計者はイギリスのジョサイア・コンドル
庭園というより建物が見学のメイン。庭園は、かつての面影は殆どなく、面積も縮小され一面の芝生となっている。玄関で靴を持ち、和風の建てやから庭に出るコースとなっている。

問合せ先:東京都台東区池之端1-3-45 旧岩崎邸庭園管理所 TEL03-3823-8340
開館時間:午前9時〜午後5時【入館は4時30分まで】
休園日:年末年始(12/29〜1/3)
入園料:一般400円 65歳以上200円 (小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)
ホームページwww.rakugo.or.jp/iwasaki1.htm

    岩崎弥太郎についてさらに詳しく知りたい方は、当庭園入り口を出て左に行くと小さな交差点があるので、これを左に無縁坂を登り、岩崎邸庭園の裏へとさらに左に曲がるとやがて右側に(財)三菱経済研究所がある。その一階に三菱資料館があり三菱財閥の歴史など多くの資料が展示されている。入場無料だが、要記帖。
住所: 〒113-0034 東京都文京区湯島四丁目10番14号 電話 03-5802-8670(代表)/03-5802-8673(付属三菱史料館)
ホームページhttp://www.meri.or.jp/

六阿弥陀五番

(3)六阿弥陀五番(ろくあみだごばん)

   六阿弥陀には、京都六阿弥陀、鎌倉六阿弥陀などあるが、これは当然江戸六阿弥陀の一つ。一番:西福寺(北区豊島)、二番:恵明寺(足立区江北)、三番:無量寺(北区西ヶ原)、四番:与楽寺(北区田端)、五番:常楽院(調布市西つつじが丘)、六番:常光寺(江東区亀戸)。

   なぜ、五番がここにあるかというと、上野広小路(ABABの辺り)にあった五番が戦災で焼かれ、調布にご本尊を移転したが、広小路の信者のお参りが不便ということからレプリカをこの地に残したという。
   聖務天皇(700年台)の時代、足立の地の長者に一女がうまれ足立姫と呼ばれた。年頃となり無理に結婚させられ自殺してしまった。長者が悲しみ熊野権現に詣でたところ、仏が夢枕に立ち、行脚僧が立ち寄るから霊木をもって六体の阿弥陀仏を作ってもらうよう告げた。長者は、僧に六体の阿弥陀仏を作ってもらい、六ヶ所の寺を建立し、一体ずつ安置した。(現地説明板より抜粋)
   谷中に六阿弥陀通りと名の付く路地がある。不忍池に注ぐ谷田川にほぼ平行した道であり、四番の与楽寺(田端)から六阿弥陀五番(広小路)への通り道だったらしい。

(4) 境稲荷神社(さかいいなりじんじゃ)

境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸

   倉稲魂命(うがのたまのみこと)が祀られている。文明年間足利九代将軍義尚公により創祀されたと伝わる。戦火により焼失後、平成5年再建。直ぐ隣りは東京大学つまり向ヶ岡、この神社は忍ヶ岡。境に位置することから命名されたとか。すぐ裏手には「弁慶鏡ヶ井戸」があり、源義経一行が奥州への途中に弁慶が見つけたとの言い伝えがある。井戸は現役で古くから名水として親しまれている。右傍に名水碑がある。

川路聖謨墓

(5) 川路聖謨墓・大正寺

   川路聖謨墓(かわじとしあきら:享和元年〜慶応4年:1801-1868)。幕末の幕臣。開国派。ロシアのプチャーチンとの外交が有名。相次ぐ外国船の来航から国防のため東京湾に台場(一部残存しお台場として知られている)を築いた。井伊直弼(いいなおすけ)により左遷。文久3年(1863)に外国奉行として復帰。慶応4年(1868)、江戸城開城の翌日(台東区教育委員会の説明板には、「直前」とある)ピストル自殺した。墓は、大正寺山門より墓地を奥に入り最奥手前を左に曲がった奥近く右側。

(6) 北村季吟墓・正慶寺

北村季吟墓と正慶寺

   北村季吟墓(きたむらきぎん:元和10年〜宝永2年:1624-1705)。江戸時代の俳人・歌人。号、捨穂軒。「徒然草文段抄」・「源氏物語湖月抄」・「枕草子春曙抄」・「八代集抄」・「万葉集集穂抄」など古典注釈著書で有名。松尾芭蕉は北村季吟の弟子だが、師より有名な存在となる。墓は、正慶寺の墓地中央辺りで庭池を背にしている。墓石正面には「再昌院法印季吟先生」とある。



妙顕寺

(7) 鳥居清信墓・妙顕寺

   鳥居清信(とりいきよのぶ:寛文4年〜享保14年:1664-1729)。江戸前期の浮世絵師。浮世絵師鳥居清元の子として大阪に生まれる。貞享4年(1687)父と江戸に出る。歌舞伎の看板絵を描いていた父のともに役者絵を描き、役者の一枚絵の鳥居派役者絵様式を完成。代表作に「立美人」「傘持美人」などがある。



(8) 七倉稲荷神社(ななくらいなりじんじゃ)

七倉稲荷神社

   倉稲魂命(うがのたまのみこと)が祀られている。浅草蔵前にあり七つの倉の守り神として崇められていたが、明治維新後に七軒町(この近く)に移転。明治9年(1876)に当地に遷座。平成元年(1989)に新築。



忠鋼寺

(9) 「槍の半蔵」縁の寺

   渡邉半蔵源守鋼は、16歳で徳川家康に仕え、桶狭間の戦い、三河八幡も戦いにて戦果をあげ家康に賞賛され「槍の半蔵」と呼ばれた。孫の忠鋼の弟丹後守吉鋼が神田台に渡邉院忠鋼寺を建立し菩提寺とした。その後、現地に移転した。



(10)樋口定伊墓・浄厳律師墓・妙極院

浄厳律師墓と妙極院

   樋口定伊(ひぐちさだこれ:文化4年〜慶応3年:1807-1867)。剣術・馬庭念流18代当主。

   浄厳律師(じょうごんりっし:寛永16年〜元禄15年:1639-1702)。真言宗の僧侶。河内(現大阪)に生まれる。号は雲農と妙極。高野山金剛寺で諸典を修め、特に悉曇(しんたん:梵字、梵語関連)を研究し偉大な足跡を残した。「秘密儀軌(ひみつぎき)」を編纂。著書には「法華経秘略要鈔」、「悉曇三密鈔」、「諸真言要集」など29種、85巻。

(11) 横山大観記念館

横山大観記念館

   当館は、横山大観が明治42年(1909)より住ん でいた上野池之端の住居を、そのまま使用している。横山大観は戦争で住居を焼かれ一時熱海に移住していたが、昭和29年(1954)8月に再建し再び池之端に暮らしはじめた(北側土蔵は大正時代のもの)。昭和33年(1958)2月に90歳で没するまで、ここで作品を制作し続けた。昭和51年(1976)11月、遺族から大観の作品や遺品などが寄贈されて(財)横山大観記念館が設立され開館した。  

問合せ先:東京都台東区池之端1-4-24(財)横山大観記念館 Tel 03-3821-1017
開館時間:午前10時〜午後4時【入館は午後3時45分まで】
休館日:毎週 月曜・火曜・水曜日 【長期休館あり:夏期、梅雨、年末年始】
    祝日の月曜・水曜日に臨時開館することがある。
    台風や大雪の日に、臨時休館することがある。
入場料金 :大人500円(400円) 子供(小学生まで)200円(100円)
( )内は割引料金:団体20名以上、及び身体に障害のある方
ホームページwww.tctv.ne.jp/members/taikan/

(12) 不忍池(しのばずのいけ)

春の不忍池

   不忍池の誕生には諸説があるが、武蔵野台地の東のはずれの一分脈で隣は本郷台地である。この谷間が西ヶ原まで海の入り江だったという。次第に隆起するか土砂が堆積するかして干上がった。その一部が池となり残ったが、これを利用して海水の遡上を止めるために谷田川を堰きとめて作ったものである。

    名前の由来は諸説あるが、上野公式サイトによると「上野台を忍ヶ岡と呼んだので、その下にある池を不忍の池と称し、この池から流れ出る川を忍川というようになったとする説が妥当な解釈であろう」と結んでいる。名付け親は藤堂高虎だという話もある。確かに藤堂高虎の屋敷から不忍池が一望できたであろうが、「藤堂高虎は忍びだ」という噂に「俺は忍びじゃない」と言って不忍池と命名したとか。諸説の中で内容的、時期的にこの説が一番疑わしい。

    明治時代に入ってからは、明治10年(1877)博覧会場、競馬場などに利用された。戦後の一時期には池の一部に稲が植えられ、不忍田圃(しのばずたんぼ)と異名が付いたこともある。できた当初より谷田川流域や池畔の飲食店の生活用水の流入で水質汚染に悩んできた。
不忍池の黄菖蒲
不忍池から先は、忍川となりABAB並びの永藤ビルの横(ビルの中を裏道に抜けられる通路がある)を通り、神田「お玉ヶ池」に至り、さらに隅田川に流れ込んでいたそうだ。神田「お玉ヶ池」は、現在の千代田区岩本町二丁目に「お玉稲荷」があって、そのあたりだと思われる。

    池は、弁天堂を中心とするY字型の道で3分割されている。一つは蓮池で、8月には蓮の花が美しい。しかし、昭和25年頃までは蓮は弁天島付近に僅かにあるだけだった。もう一つは、ボート池で、池畔では5月に黄菖蒲が咲く。残りの一つは、上野動物園の一部となっている。なお、弁天島は水谷勝隆が天海僧正と相談して琵琶湖の竹生島に見立てて作った人工島であるから、Y字形の道は始めは無かったし橋もなかった。また、了翁禅師が一切経を収めるために築いた経堂島も弁天島の南に一時期あった。なお、動物園側書院裏に小さな聖天島がある。

龍門橋碑
    不忍池は、谷中を通る藍染川(谷田川)や根津(現、忍ばず通り)を通る川(筆者は都電軌道の脇を工事で開けていたときに、水がとうとうと流れている暗渠を目撃している)など周辺からの汚水が流れ込み、汚泥が堆積しけっしてきれいな水の池ではなかった。このため、時々汚泥を取り除くことをしていたが、延享4年(1747)池の北側に池底より浚渫した汚泥で土手を築いた。そこに茶屋など盛り場ができ、景色の良さや名物の蓮飯につられ繁盛したが、汚水も垂れ流した。また、いつしか男女のデートの場となり出会茶屋と呼ばれるようになった。いつの世も出会い系は繁盛するようだ。管理する当局から宝暦2年(1752)強制撤去された。池の汚泥の堆積は続き文政3年(1820)に、再びできた出会茶屋を撤去するとともに、池の北側から西周りに半周して三橋付近で忍川に通じる両側土手の幅10mほどの溝を作って、汚水が池に流れ込まないようにバイパスとした。そして、この溝を渡るために三橋側から順に)、「竜門橋」(下町風俗資料館辺り)、「雪見橋」(水上音楽堂辺り)、「中橋」(ホテル市松前)、「花見橋」(無縁坂下)、「蓮見橋」(水上動物園前)という六本の橋を架けた。現在はバス道路になっている。池の南側の下町風俗資料館傍に龍門橋の碑が、バス通り水上音楽堂反対側辺りに雪見橋の碑がその名残を残すのみとなったが、この部分だけが幅の広い道路である理由がここにあった。

(13) 寛永寺弁天堂

   寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、東叡山寛永寺を開山。その後、常陸(茨城県)下館城主水谷(みずのや)勝隆が、不忍池を琵琶湖に見たて、竹生島(ちくぶじま)に相当する中之島(弁天島)を築き、竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)の大弁財天を勧請し、弁天堂を建立した。
弁天堂と水盤舎
    舟で島と往来することを望んだ天海僧正が寛永20年(1643)に没すると寛文の末(1670)に木製の天龍橋(現在の橋は昭和5年(1930)改装の石製)が架けられ、その入口に唐金の鳥居が建てられた。弁天堂は、昭和20年(1945)の空襲で焼失し昭和33年(1958)9月に再建された。弁天堂本尊は慈覚大師の作といわれる八臂(はっぴ)の大弁財天で、音曲の神でもある。脇士は毘沙門天と大黒天である。
    本堂の天井には、児玉希望(こだまきぼう)筆の「金龍」を、また本堂前の手水鉢の天井に谷文晁(たにぶんちょう)が70歳のときに描いた「雲龍の図」を見ることができる。保護のためにガラスが張ってあるので見難いが一見の価値がある。

    正面左側の一際目立つ琵琶碑は、「この大弁才王菩薩は願い事を何でもかなえる」といった主旨のことが書かれている。書は山岡鉄舟
大黒天堂
弁天堂の北側(動物園側)に大黒天堂がある。縁日は毎月初巳の日。

(14) 下町風俗資料館

   下町の歴史や風俗など庶民文化を展示した資料館。台東区立である。明治、大正の商家と長屋が復元されていて、家財道具や生活用品も当時使用されていたように配置されている。また、戦時中のものも展示されている。

問合せ先:東京都台東区上野公園2−1 下町風俗資料館 Tel 03-3823-7451
開館時間:午前9時30分〜午後4時30分
休館日:毎週月曜日(祝日と重なる場合は翌日)年末年始、展示替等整理期間
入場料:一般300円(200円)・小・中・高生100円(50円) ( )は20名以上の団体
ホームページ:http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/

(15) ホテル水月鴎外荘

森鴎外旧居

    森鴎外は、明治22年(1889)海軍中尉赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏、下谷区上野花園町11番地(現、台東区池之端3丁目3-21)と呼ぶこの地に移住し、翌年10月上旬、本郷区千駄木町57番地(現、文京区千駄木1-23-4:森鴎外記念図書館)に移るまで、鴎外はこの地に住んだ。 その家屋が「鴎外荘」としてこのホテルの中庭に保存され「舞姫の間」がある。また、和風の庭に「舞姫の碑」と「於母の碑」もある。     ホテル内には「鴎外温泉」がある。カルシウムやラジュウムなどを含んだ重炭酸ソーダの都内第1号の天然温泉である。15時以降は日帰り入浴可能(1000円、タオル、バスタオル付)。大理石風呂と桧風呂の二種類があり、「福の湯」は大理石風呂。「檜の湯」は樹齢2000年の檜の中から柾目の美しい無垢材を厳選し、漆を丹念に塗り重ねて仕上げた、東京では初めての古代檜漆塗り風呂。男女日替わりである。当コース最後に訪れることは素晴らしい思い出になるに違いない。

(16) 一円庵

一円庵
    明治の初期、江戸千家七代蓮々斎が玄関、寄付と共に他から譲り受け池之端に移築したもの。その後川上不白が住んだ。寄付の正面右に丸炉があり、その前壁に太い古風な柱がある。柱には二行書きで「三冬古木秀 九夏雪花飛」という不白の文字が彫られている。茶室は、寄付の隣に廊下をはさんで配置された三畳台目の席である。昭和37年東京都重宝文化財の指定を受けたが、現在非公開。