天海僧正が吉野山より江戸時代に移植したとされる桜の花見で賑わった上野の山は、明治6年(1873)の太政官布告により公園となった。同時に芝(増上寺)、飛鳥山(金輪寺)、浅草(浅草寺)、深川(富岡八幡)、の計5箇所を公園とした。いずれも徳川家に縁の深い寺社境内で、徳川色一掃を目的とした政治的なものだったといわれている。当時庭園はあったが公園は初めて。この陰には、後でご案内するボードワン博士の先見性のある進言があったという。そして、上野公園の基本設計には、町田久成田中芳男がかかわり、博物局・内山下町(現、日比谷公園)の博物館勤務時代に、東京国立博物館・国立科学博物館・東京都恩賜上野動物園の3館の基礎を作った。上野公園は総面積52万m2。江戸時代には寛永寺の境内であったが、明治維新の彰義隊と官軍との上野戦争により、寛永寺と付属の建物は焼失し、かなりの部分を政府に取り上げられた。公園は、高台の桜ヶ丘と不忍池に分かれている。上野動物園のほか多くの美術館や博物館、芸術大学、史跡、古墳などがあり散策するには中身の濃い地域である。
上野公園総合案内所()03-5685-1181

   下町風俗資料館からは、すぐ表通りに公園を出る。不忍池の水は、現在のバス通りのところの溝を流れてきた水と合流し、この辺りを通り向かいの永藤ビル方向に向かって忍川となって流れ出していた。この辺りには溝に架かる龍門橋があった。このことを知らせる東京都の建てた石の案内柱が公園出入り口際に立っている。
    元禄11年(1698)に大火延焼を防ぐために道路幅を広げ広小路としたが、その折に橋を3本に増設。これを三橋といった。明治になって中央の橋には鉄道馬車も通った。永藤ビルの左隣りに「みはし」という甘味喫茶が、その名を伝えている。

高橋尚子手形
   広い公園入り口を現在は「山下口」という。ツアーの待ち合わせるには、この広場の「蛙の噴水」を目安にすると良い。交番も近くにあり安心だ。また、広小路方面の広い中央通りは、「御成道(おなりみち)」と言い、将軍の年中行事となった参拝のために整備されたもの。左右に桜の木があるが、左(動物園通り側)のものは大寒桜で、3月下旬に他の桜に先んじて咲く。この桜の木の下を柵に沿って歩くと、国民栄誉賞を受賞した方々の手形がある。王貞治から始まって高橋尚子(平成16年(2004)現在)まで並んでいる。手形のない方は、没後の受賞となったためである。
その先に蜀山人歌碑がある。広場を横切り反対側、交番の後ろ側の緑の中には、日露戦争の忠魂碑がある。

   旧参道の坂道ではなく目の前の階段を登ると西郷隆盛像が見える。彰義隊士の墓は、西郷隆盛像の左手奥にある。清水観音堂は、彰義隊士の墓から左手奥に見える赤いお堂である。

   清水観音堂の裏手には花見の情景を詠んだ秋色桜がある。その通り向かいには王仁博士碑があり、その裏手にうっそうとした林があるが、天海僧正毛髪塔はこの中にある。天海僧正毛髪塔の林から裏に抜けると上野の森美術館となる。左隣りの建物が日本芸術院。この辺りは「本覚院」跡である。

   公園路を左に進むと、右前方に高台がある。これが摺鉢山古墳である。摺鉢山古墳の向こう側に上野恩賜公園管理事務所があるので、公園の案内図など貰える。

寛永寺文珠楼の礎石
   管理事務所側から摺鉢山古墳を登って反対側に降り、旧参道の通りに出る。かつてこの辺りに寛永寺文珠楼(もんじゅろう:元禄11年:1698)があった。上野戦争で焼失。路傍に長方形の礎石が残っているが、それらしき石が清水観音堂下に数個ある。公園造成・改修時に位置は動かされたものと思う。元禄11年(1698)に寛永寺根本中堂とともに造られ、文殊菩薩が安置されていた。高さ24mもある楼門だった。

韻松亭
   旧参道を横切って花園稲荷神社横の忍ぶ坂を下ると途中に五條天神社がある。受付で案内書を貰い見学しよう。特に天井の薬草の絵が壮観である。穴稲荷もある。境内より階段を上がり隣接する花園稲荷神社を抜けると、旧参道に戻る。韻松亭を左に精養軒方向に進むと、すぐに左上方向に時の鐘の鐘楼が見える。上野精養軒は寛永寺子坊「妙教院」跡に建てられたもの。時の鐘の通り向かいにこんもりとした高台があるが、これが大仏山パゴダである。次に続く

レストラン:広小路やJR上野駅方面の繁華街にはいくらでもある。公園内では西郷隆盛像のある広場のグリーンパーク、花園神社隣りの韻松亭、上野精養軒、動物園正門付近、東京文化会館内、上野駅公園口駅舎2階、国立西洋美術館内、その右隣の上野グリーンサロン内など
公衆トイレ:動物園通り駐車場並び、公園入り口交番の裏手大通り側、グリーンパーク横、トーテンポールの通り向い野球場裏、上野グリーンサロン前

(17) 蜀山人歌碑(しょくさんじんかひ)

蜀山人歌碑
忠魂碑

昭和13年(1938)建碑。蜀山人とは大田南畝(寛延2年〜文政6年:1749-1823)のこと。江戸時代の文学者。碑文は下記のとおり。
一免の花の碁盤の上野山 黒門前にかかる志ら雲 蜀山人

(18) 忠魂碑

裏には、明治37・38年の戦争犠牲者の名がある。日露戦争の忠魂碑と思われる。


(19) 西郷隆盛像(さいごうたかもりぞう)

西郷隆盛像

    西郷隆盛は幕末維新期の政治家。明治31年(1898)12月建立。高村光雲作。犬(雌、名はツン)は後藤貞行作。しかし、後藤貞行が雄犬をモデルにしたため、銅像の犬は雄。よく見るとあまり可愛くない。兎狩り姿で皇居を向いている。本来皇居前に建てられるところ西南の役で政府に弓を引いたことから許されなかったという。除幕式に立ち会った西郷隆盛の妻は、この像が隆盛に似てないと気に入らず2度と来なかったと伝えられている。これは、写真を嫌った西郷隆盛の写真がなく、親兄弟などから推測したのが原因と見られている。なお、「除幕式」という言葉の始めといわれている。



彰義隊士の墓

(20) 彰義隊士の墓(しょうぎたいしのはか)

   維新の際、江戸城無血入城に反対し輪王寺宮公現親王を奉じて上野の山にたてこもった3000人の旧幕臣を彰義隊という。戊辰戦争(ぼしんせんそう:慶応4年/明治元年〜明治2年:1868-1869)の上野寛永寺の戦い(上野戦争)である。慶応4年(1868)5月15日に大村益次郎の指揮する官軍によってわずか半日で壊滅した。この時の戦死者180名の遺骸が埋蔵されている。墓標に文字は山岡鉄舟。しかし、明治政府の対応は厳しく、一朝一夕に当該墓碑ができたわけではなかった。明治6年(1873)の暮れまでお参りさえも許可されなかった。はじめ仏磨と三河屋幸三郎が荼毘に付し、寒松院と護国院の住職により埋納され小さな墓石が作られ、寛永寺関係者だけが密かに知っていた。明治7年(1874)寛永寺とかつて彰義隊の天王寺組頭を務めた小川椙太が唐金製の円筒形の墓を創った。しかし募金が集まらず、抵当に回収されてしまった。現在の墓は、明治14年(1881)に完成したもの。墓碑には「戦死之墓」とあり、彰義隊という文字を入れるのをはばかったものといわれる。写真でもわかるように、この墓石の前に小さな墓石がある。これが前述したはじめの墓石であり、これには「彰義隊戦死之墓」とある。なお、近年まで墓の傍に管理棟があって、御守りや絵葉書も売っていたが、記憶にある方もいると思う。小川椙太の子孫である小川彰とその妻が運営していた。


(21) 清水観音堂と秋色桜(きよみずかんのんどうとしゅうしきざくら)

上野清水堂
秋色桜歌碑と井戸

   寛永8年(1631)に京都清水寺観音堂を模して天海僧正が建立。現存する寛永寺の建物としては最古。重要文化財。観音堂内の本尊千手観音像(重要文化財)は恵心僧都(940-1017)作と伝えられる。また、平家滅亡に関する「盛久危難の図」を見ることができる。始めはすり鉢山の上にあったが元禄11年(1698)の大火で幕府学問所(林羅山の家塾と思われる)が焼失し、元禄年間(1688〜1703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のためその跡地に移築された。 人形供養としても有名。堂の裏手に井戸があり、井戸端に「秋色桜」がある。日本橋の菓子屋の13歳になる娘の「お秋」が「井戸端の桜あぶなし酒の酔い」という句を詠んだ短冊を、桜の枝につるしておいたのを輪王宮の目にとまり絶賛された。その後この桜を「秋色桜」と呼ばれるようになった。町娘の出世話しであり庶民受けした。ぜひ台東区の立てた説明板を読んで欲しい。もっと詳しく知りたい方は、浪花節の「秋色桜(しゅうしきさくら)」を聞くといい。なお、桜自体は、昭和53年(1978)に植え接いだもので9代目。


博士王仁碑と菅公詠梅

(22) 博士王仁碑

    「王仁博士碑の遺徳を普及するためと日鮮両国の親善を図るために」と日本語と英語で書かれている。昭和15年(1940)に建てられた。王仁とは応神朝に百済(くだら)から渡来したと伝えられる西文氏(かわちのふみ)の祖で、「論語」と「千字文」を伝えたといわれるが、実在したのか否か疑問もあるようだ。
この右には、菅公が詠んだ梅の木がある。    

(23) 天海僧正毛髪塔(てんかいそうじょうもうはつとう)

天海僧正毛髪塔

    天海僧正の毛髪が納められている。天海僧正は寛永寺の創始者。遺言により遺骨は日光山に葬り、ここ天海僧正の自坊であった本覚院の跡には、供養塔が建てられた。後、慶安1年〜4年(1648-1651)頃に本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ、以後天海僧正毛髪塔と呼ばれるようになった。



(24) 上野の森美術館

   昭和47年(1972)開舘。日本美術協会による貸美術館。
問合せ先:台東区上野公園1−2 上野の森美術館 Tel 03-3833-4191
開館時間:午前10時〜午後5時(展示内容または曜日により異なることがある)
休館日:不定休
ホームページhttp://www.ueno-mori.org

(25) 日本芸術院(にほんげいじゅついん)

   日本芸術院は,大正8年9月に「帝国美術院」として創設された。
その後,昭和12年6月に美術のほかに文芸,音楽,演劇,舞踊の分野を加え「帝国芸術院」に改組,昭和22年12月に「日本芸術院」と名称を変更し今日に至る。
日本芸術院は,芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関。
問合せ先:東京都台東区上野公園1−30 日本芸術院 Tel 03-3821-7191
ホームページhttp://www.geijutuin.go.jp

(26) 摺鉢山古墳(すりばちやまこふん)

   約1500年前の前方後円墳。弥生式土器、埴輪の破片や須恵器(すえき)などが出土した。現在の大きさは長さ70m後円部経43m前方部幅は23m高さ5m。頂上に仮水準点があり24.460mを示している。この他に東京国立博物館内の表慶館古墳、東京文化会館の桜雲台古墳、東京都美術館の蛇塚古墳などが点在していたが現存するのは、ここだけとなった。丘上は、かつて五條天神、清水観音堂があった。

(27) 五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)

五條天神社

   主神に大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと=大国主命おおくにぬしのみこと)の二柱の薬祖神(やくそじん)を、相殿に菅原道真(すがわらみちざね)公を祭ってある。合祀されたのは、寛永18年(1641)。第12代景行(けいこう)天皇の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東夷征伐のため上野忍ヶ岡を通ったおり薬祖神二柱の大神にご加護を頂いた事を感謝し、両神を祭ったのが創祀である。約1890年前のことである。薬の神様で、天井の桝目に薬草の絵が多数描かれている。また、日本橋本町にある薬事協会ビルの屋上には、分霊の薬祖神社がある。他の天神同様うそ替神社でもある。大祭は、毎年5月25日、月次祭(つきなみさい)は、毎月25日、医薬祭は毎月10日。
なお、天井の升目は88あり、薬草と水草が描かれている。階段の近くから覗き見ることができる。この天井画は、当時の東京美術学校(現、東京芸術大学美術部)の教授や卒業生の手で、大正13年1924)から昭和3年(1928)の落成までの足掛け5年を費やして制作された。
問合せ先:台東区上野公園4−17 五條天神社 Tel 03-3821-4606

(28) 花園稲荷神社(はなぞのいなりじんじゃ)

花園稲荷神社

   創祀の時期は不明。忍岡稲荷(いのぶがおかいなり)が正式名称。石窟の上にあったことから穴稲荷とも呼ばれる。承応3年(1654)、天海僧正の弟子の本覺院(ほんがくいん)の僧、晃海僧正が霊夢に感じ廃絶していたお社を再建した。幕末の上野戦争では、最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られている。明治6年(1873)に岩掘数馬、伊藤伊兵衛らによって再興され、花園稲荷と改名。五條天神が隣地に遷座時に、社殿を一新し現在のように南向きになった。
問合せ先:台東区上野公園4−17 花園稲荷神社 Tel 03-3823-2034



時の鐘

(29) 時の鐘(ときのかね)

   精養軒に行く道の左側にある。元禄時代になり上野、浅草寺、芝切通し、本所、横川入江町、市谷八幡、目白不動新長谷寺、赤坂成願寺、新宿天龍寺の市内9箇所に時の鐘が作られたうちの一つで、当時の時報機関として付近の住民に時刻を告げていた。柏木大助が幕府の許可をえて奉納したもので、上野の鐘の初代は寛文6年(1666)の建造。銘に「願主柏木好古」とあったという。天明7年(1787)に谷中臨応寺(現、天王寺)で鋳なおされたものが現存の鐘。芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か浅草か」はあまりにも有名。時を知らせるために専用に作られたもので、一定の地域の大名からは石高に応じ、町民からは間口に応じて料金を徴収していたという。しかし、わずか50mのところに寛永寺の鐘楼があったが、わざわざ作ったのは、寛永寺の格式があまりにも高く、時計代わりに鐘を打ってくれとは言えなかったに違いない。浅草寺にも2つの鐘楼があったのだろうか。簡単に調べた限り1つだった。明治時代になると時計の普及もあり廃止されたが、この上野では現在でも朝夕六時と正午の3回、昔ながらの音色を聞くことができる。
     なお、上野戦争の後、寛永寺領内に入ることは禁じられ、明治2年(1869)2月26日になって時の鐘を再開することができるようになった。この間、9ヶ月間鳴ることはなかった。

(30) 大仏山パゴダ(仏塔)

上野大仏・パゴダ

   ご本尊は薬師瑠璃光如来、お脇侍は日光月光の二菩薩。寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来の像を建立。正保4年(1647)の地震で泥製の大仏が破損。万治3年(1660)頃青銅の大仏に改鋳。天保12年(1841)に火災で破損し2年後に修復。安政5年(1854)の大地震で破損し修理。大正12年の大震災で破損撤去した。胴体の部分は、戦時に供出されてしまった。昭和42年(1967)明治100年事業としてパゴダを建て薬師如来三尊を安置。昭和47年(1972)面の部分のみを再び祀った。

パゴダ管理小屋に「さざれ石の宮伝説」が記載されていた。あらすじは下記。

パゴタ内部の薬師如来像

さざれ石の宮伝説
   成務天皇の38人目の末っ子"さざれ石の宮"は、大変に美しく14歳で北の政所となり女人として最高位となった。宮は慈悲深く変わり行く有為転変を憂い、薬師如来を熱心に拝んでいた。
   ある日さざれ石の宮の前に黄金の天冠を着けた官人が降り来て、宮の前に一つの壷を捧げた。官人は薬師如来十二神将のひとり金毘羅大将であった。壷には不老不死の薬が入っていた。また、壷の外側には「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」と書かれていた。宮は以後老いることなく十一代の天皇の間生きた。ある日薬師如来に迎えられ即身仏になったという。