大仏山パゴダのすぐ裏手に日本三大灯篭のひとつであるお化け灯篭がある。旧参道側にはトーテンポールがある。お化け灯篭前を行くと東照宮参道の石畳に出る。左りに折れ東照宮水舎門をくぐった左側は、ぼたん園だ。石灯篭を両側に進むと右側に五重塔がそびえている。五重塔は動物園のフェンスの中である。さらに進と青銅灯篭(国宝など)がたくさんあり正面に藤堂高虎の建てた東照宮がある。東照宮参道には、原爆平和の火が燃えている。

新鶯亭
   見学を終えたら東照宮参道をもどり、鳥居を出て左に行くとだんご屋新鶯亭がある。右側は遊園地だ。動物園正門前の遊園地を迂回すると、グラント将軍植樹碑があり、隣りに小松宮彰仁親王像がある。ここは旧寛永寺の鐘楼跡地である。

大噴水
   目の前の広場は、ラジオ体操広場だ。交番横にその説明がある。目の前の大噴水のところには旧寛永寺根本中堂があった。その説明が、広場左側にある。

   交番の先には、国立西洋美術館東京文化会館および上野グリーンサロンがある。この辺りは「学頭寺凌雲院」だった。そして、上野駅公園口となる。引き続き桜木の方面に行かれる方は、この時点で立ち寄ると良い。上野ツアーだけで帰る方は、最後に上野駅に戻って来るならば後で寄るのもいいだろう。

    左側の林の中にボードワン像がある。繁みの中を通らずとも噴水横を通って行けば容易に発見できる。噴水を過ぎたところで左に若干坂を下ると、谷文晁碑がある。左の大きな建物は、東京都美術館だ。上野公園となった後「日長原」という緑地だったらしい。その後(たぶん戦後)運動広場が作られ(筆者の記憶では)「二本杉原」という広場となり、近隣の中小学校の運動会などに使われていた。東京都美術館の裏手には、旧動物園正門があるが、当事の運動会の写真に京成電車の旧動物園博物館前駅の旧動物園正門側の建物が写っている。

給水所跡
桜木橋碑
水路跡
滝・清水谷
五条橋


    動物園と芸大の間に水路跡が見える。傍には「さくらぎばし」の碑がポツンと建っている。ここに橋が架かっていた証拠である。この水路は寛永寺の余水を流したもので、元の水は千川上水である。明治期の古地図によると、起点は東京都美術館の反対側にある給水所(かつて公園に水を撒くための給水車に水を入れるための設備だった)辺り。この水路は、東京都美術館のある中央を横断してきて、すぐに動物園の中に曲がり、滝となって清水谷へと流れ白クマ舎の前を抜け、通用門辺りで道路に至る。滝には、現在も水が落ちているが、井戸水の汲み上げによるものと思われる。さらに道路に沿って、五条天神の前の五条橋下を通り、不忍池の出口側の水路に合流している。恐らく、藤堂高虎の屋敷の庭園を流れていたに違いない。上水は維持管理が大変だったのと、井戸堀技術の発達で、千川上水は、青山上水・亀有上水・三田上水ともに享保7年(1722)に廃しされた。天明元年(1781)千川上水だけが復活したが、天明6年(1786)再び廃し。のち、岩崎弥太郎が千川水道株式会社を創り、明治14年(1881)に再興した。写真の水路は、このとき改修されたもので、明治34年(1901)ころまで動物園で使っていたが、明治40年(1907)には廃しされた。

    文晁碑を左手に見て林の中を進むと奏楽堂がある。庭に見えるのは滝廉太郎像である。
トイレ脇を通って公園を出ると、芸大通り反対側の交差点角に国会議事堂の屋根のような建物があるが、京成電鉄の旧博物館動物園前駅だ。平成9年(1997)に閉鎖された。
    芸大通りを左に行くと芸大美術館がある。公開日以外は入館できない。秋の芸大祭のときは奥まで入れ、岡倉天心像フェノロサ碑を見ることができる。芸大通りを行かずに信号を渡ると茶色いスクラッチスタイルの外壁の黒田記念館がある。黒田清輝の絵を無料で見られるが、閲覧したいなら公開日を確認してから出かけよう。黒田記念館前を国立博物舘のフェンスに沿って行くと、左側に国際こども図書館がある。ガラス張りの明るい喫茶店もあるので疲れた方は休憩するにはちょうど良い。この辺りのフェンスの中には、春に紫花菜が一面に咲き、同時に咲く桜と共に美しい場所である。

   来た道を戻り芸大通りを左に折れ国立博物館正門方面に行くと、左側に旧因州池田屋敷表門がある。土日には門が開いていて国立博物館の臨時の出口となる。動物園からこの辺り一帯は、藤堂高虎の領地だったが、その後寛永寺が作られたときに寛永寺領地となった。国立博物館正門まできたら、信号を大噴水の方に渡る。噴水に向かって科学博物館側の林の中に野口英世像がある。新札にも登場したし、あらためて見てはいかがか。

寒松院
   科学博物舘前を鯨の方に芸大通りに出る。国立西洋美術館から続くこの辺りは、松原跡だったそうだ。科学博物館に沿って進むと、日本学士院があり、通り向いに両大師旧寛永寺本坊表門がある。JRの線路を跨ぐ跨線橋の名は両大師橋、その先の坂は車坂。昔は、車坂は左右に降りていたが、今は左側のみ。右側は、歩行者・自転車専用のZ形の鉄製の坂となった。新幹線開通に由来するものと思われる。橋を渡らずに輪王殿横の道を行くと左側に殉死者の墓がある。また、平成17年(2005)戦後60年を機に戦没者の碑が建てられた。向い側の一画は、寛永寺の別院がいくつかあり、輪王殿裏より私道を行くと美しく整ったお寺の門を見ることができる。この雰囲気は、とても上野公園とは思えない。もう、桜木の雰囲気だ。最もJR鶯谷駅寄りの角に藤堂高虎の作った寒松院がある。

    ここまでが上野公園の範囲である。この先は桜木となる。上野公園ツアーは、これでおしまい。JRに沿って、上野駅に行くも良し、鴬谷駅に出るも良し。時間があれば桜木へツアーを続けるもよし。続きは、谷中・桜木ツアーをどうぞ。

レストラン:動物園正門付近の甘味処の新鴬亭など、東京文化会館内、上野駅公園口駅舎2階、国立西洋美術館内、その右隣の上野グリーンサロン内など。喫茶程度の軽食なら、国際こども図書館内がおすすめ
公衆トイレ:トーテンポールの通り向い野球場裏、グリーンサロン前、ラジオ体操広場横、東京文化会館寄りにも、交番裏、動物園正門近く、谷文晁碑手前、奏楽堂傍

(31) お化け灯篭(おばけとうろう)

お化け灯篭
トーテンポール

    佐久間大膳亮勝之(さくまだいぜんのすけかつゆき)は、寛永7年(1630)5月海難にあい、熱田神宮に祈りその加護によって無事だったことを感謝して、上野東照宮には寛永8年(1631)に寄進したもの。高さ7m、笠回り3.6m。「お化け灯篭」ともいわれ京都南禅寺、熱田神宮の佐久間灯篭(高さ8m)と並んで日本の3大灯篭といわれているが、全て佐久間大膳亮勝之の寄進。
    佐久間大膳亮勝之は、長野市の最北部にあった長沼藩主。元和2年(1616)佐久間大膳亮勝之が長沼城に入り、長沼藩が成立した。これと同時に兄の佐久間備前守安政が飯山城に入っており、兄弟で北信濃の北部を占めていた。

(32) トーテンポール

   上野ライオンズクラブが創立を祝って昭和39年(1964)に建てたもの。高さ7m。台座に「自由と知性はわれらの国の安全 われらは奉仕する」とある。アメリカ人らしき観光客が記念写真を撮ることもある。案内に値しないが、何だろうと思われる方もおられるので取り上げた。

(33) ぼたん園

   上野東照宮の参道の南側には「ぼたん園」があり、冬ぼたんは毎年1月から2月一杯開園してい
ぼたん園
る(有料)。こもをかぶった寒牡丹がたくさん咲く。園内では、火鉢にあたりながら甘酒が飲める。牡丹の苗の即売もある。開園中は無休。4月下旬から5月中旬まで、春ぼたんも開園するが、冬ぼたんの方が見ごたえがある。
    昭和55年(1980)に日中友好記念として開園。日本のぼたんが3000本、中国のぼたんが200本植えられている。


五重塔

(34) 上野東照宮(うえのとうしょうぐう)・五重塔

   寛永2年(1625)寛永寺建立のために一部領地立ち退きをした藤堂高虎が寛永4年(1627)に屋敷内に寒松院・東照宮の初代を建立。東照宮は、江戸にも江戸城紅葉や浅草寺境内にもあったが、庶民が参拝できた浅草寺の東照宮が寛永19年(1642)に焼失したのを機に、代替宮として慶安4年(1651)3代将軍家光が立て替えた。本殿、幣殿、拝殿、唐門、透塀など贅沢な江戸時代初期の権現造り。参道両側の石灯籠や青銅灯篭は、唐門両脇の徳川御三家が6基(国宝)、あとは諸大名が寄進したもの。この中に保科正之が慶安4年(1651)に奉納のものが2基ある。「會津 従四位上左近衛権少将源朝臣正之」と書かれている。時期は遡るが籐堂高虎の奉納した灯篭も見られる。また、水舎は「新門辰五郎奉納水舎」と言われ、大岡越前が組織した江戸町火消しの親分新門辰五郎ほか4名が明治6年(1873)に奉納したもので、その名が水槽に向かって左側に彫られている。再建当時の水舎は、慶安4年(1651)阿部重次が寄進したが、最近、参道入り口の門として転用され水舎門と呼ばれている。良く見ると、門なのに脚が四本ある上、袖の部分がコンクリートブロックで造られていて赤くペンキで塗られている。東照宮内部は有料で見学できる。
上野東照宮・保科正之奉納灯篭・藤堂高虎奉納灯篭・新門辰五郎奉納水舎


    正面の大鳥居は、明神型で、寛永10年(1633)酒井忠世が奉納。一時撤去されていたが、現在のものは享保19年(1734)酒井雅楽頭忠知が再建したもの。
東照宮五重塔は、寛永8年(1631)土井炊頭利勝が建立し奉納。まもなく火災に遭い、現存のものは二代目。もとは東照宮の所属であったが、今は東京都の管理になっている。また実際に上野動物園の中にある。

上野動物園正門

(35) 上野動物園(うえのどうぶつえん)

   上野動物園は、明治15年(1882)3月20日開園。はじめは上野国立博物館の附属であったが、現在は東京都立である。総面積128,770m2。現在の正門は、昭和36年(1961)に作られ、その後昭和50年(1975)などに改築が重ねられたもの。東京都美術館裏に旧正門がある。昭和6年(1931)までは、90度北に向いていたが、昭和8年(1933)に京成電車開通に伴い、現在の向きに変えられ、また、切符売り場と門番小屋が加わった。当初は左右対称形だったが、現在は右側の柵の切符売り場がなくなっている。正面4本の柱は、トスカナ様式だ。

問い合先:東京都台東区上野公園9-83  恩賜上野動物園 TEL03-3828-5171
開園時間:午前9時30分〜午後5時【入園券の発売及び入園は午後4時まで】
休園日:毎週月曜日(ただし、月曜日が祝休日、都民の日にあたる場合は、その翌日に休園)
       年末年始 (12月29日〜翌年1月1日)
入園料:一般600円(480円)、中学生200円(160円)、65歳以上300円(240円)カッコは、20名以上の団体
    (小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)その他無料公開日あり
ホームページhttp://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/
または    http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/zoo/ueno/

(36) グラント将軍植樹碑

グラント将軍植樹碑
ぐらんとひのき碑

ユリシーズ・シンプソン・グラント将軍は、アメリカ南北戦争時の北軍の義勇軍大佐であったが、戦功を重ね後に総司令官となり北軍を勝利させた。明治2年(1869)18代・19代のアメリカ合衆国大統領となり明治10年(1877)までの2期在任した。その後明治13年(1880)にかけてグラント将軍は、家族同伴で世界を周遊した。
その際来日。明治12年(1879)8月15日上野公園での大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜を夫人は泰山木を記念に植樹した。当碑は、昭和4年(1929)8月に建てられたもの。将軍の言葉「平和を我らに」の文字が刻まれている。
碑の左隣りに高さ10mほどの元気のないロウソン檜と泰山木があり、「ぐらんとひのき」と右側から書かれた説明石も足元にある。写真の木の葉の大きさから推察できるようにとても小さい。


小松宮彰仁親王像

(37) 小松宮彰仁親王像(こまつのみやあきひとしんのうぞう)

   伏見宮邦家親王の第8王子。京都仁和寺にて修業。慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに征東大将軍として参戦。会津征討越後口総監となり戌辰戦争に参戦。明治10年(1877)5月、西南戦争の負傷者救護団体の博愛社が創設されると総長となる。明治20年(1887)に博愛社が日本赤十字社と改名後も総裁として発展に貢献。明治36年(1903)1月18日58歳で没。銅像は、明治45年(1912)に日本赤十字社によって建てられた。当地に建てられた理由は、輪王寺宮との縁故からとみられる。この地は、旧寛永寺鐘楼跡地である。



ラジオ体操広場

(38) ラジオ体操広場

   大噴水回りでは、早朝、ラジオ体操のみならず太極拳やランニングをする人が集まる。上野動物園正門前の広場をラジオ体操広場という。NHKが名付けたのかと思いたくなるが、実はラジオ体操の元ができたのは大正14年(1925)だが当時は蓄音機によるもので、昭和3年(1928)に郵政省簡易保険局がラジオ体操を制定。平成3年(1991)に制定50年を記念して東京郵政局が碑を建てたとあるが、計算が合わない。
   それはともかくとして、当広場は、多くの鳩が餌を求めて集まる。また、ヘブンアーチストがパフォーマンスをする賑やかな場所である。休日の夕方には、犬の散歩が多くドッグランもどきの状態となる。

(39) 国立西洋美術館

国立西洋美術館

   昭和34年(1959)フランス政府の好意で返還された松方コレクションを基礎とした美術館。設計は、フランスの建築家ル・コルジェだが、平成9年に大改装をした。食堂は入館フリーである。

問い合先:東京都台東区上野公園7-7 展示の件 Tel 03-5777-8600 その他 03-3828-5131
開館時間:午前9時30分〜午後5時【入園券の発売及び入園は午後4時まで】
休舘日:毎週月曜日(ただし、月曜日が祝休日にあたる場合は、その翌日に休舘)
       年末年始 (12月28日〜翌年1月1日) その他臨時休館あり
入舘料:一般420円(210円)、大学生130円(70円)中学生以下65歳以上・身障者と付添人は無料 カッコは、20名以上の団体
    (企画展は、別料金)
ホームページhttp://www.nmwa.go.jp/index-j.html

(40) 上野グリーンサロン

上野グリーンサロン

   (財)東京都公園協会の運営。レストラン、都民ギャラリーがある。レストランは大衆料金。都民ギャラリーは、利用無用。グループの写真展や絵画展などを開催している。「みどりの相談所」があったが、財政難から都営公園改革の一環として改装した。
西洋博物館寄りに若い二人の女性が手を取り合って踊っている彫像があるが、「みどりのリズム」という。清水多嘉示作。昭和26年(1951)11月3日、日米講和条約発効を記念し松坂屋から東京都に贈られたもの。当初、不忍池畔にあったが、東京文化会館横に移り、さらに上野グリーンサロン(旧緑の相談所)に移った。

問い合先:東京都台東区上野公園7-47 レストラン Tel 03-3824-9931
          その他 財団法人 東京都公園協会 Tel 03-5532-1326
開館時間:午前10時〜午後7時30分【宴会時の延長あり】
休舘日:毎週月曜日(ただし、月曜日が祝休日にあたる場合は、その翌日に休舘)
       年末年始 (12月29日〜翌年1月3日)
ホームページhttp://www.tokyo-park.or.jp/yuyupark/shop_top.html

東京文化会館

(41) 東京文化会館

   昭和36年(1961)東京開都500年記念に開館。コンサートホール、音楽資料館などがある。この辺りは、古代には桜雲台古墳のあったところ。また、寛永2年(1625)寛永寺建立のために立ち退きをした越後堀秀治の家老堀直寄が寛永寺子院の常照院(じょうしょういん)跡(金沢に遷座?)に、元禄11年(1698)に学頭寺凌雲院(りょううんいん)を建立したところ。凌雲院の境内は18世紀中頃以降から徳川御三卿のうち一橋・清水家の墓所だった。やはり凌雲院境内地であった西洋美術館辺りでは清水家の墓が発掘されている(平成10年)。

問い合先:東京文化会館チケットサービス Tel 03-5815-5452
         (月〜土 10:00〜20:00 日・祝 10:00〜18:00 休館日を除く)
          ホームページ:
ホームページhttp://www.t-bunka.jp/

(42) 旧寛永寺根本中堂跡(きゅうかんえいじこんぽんちゅうどうあと)

   大噴水の辺りに旧寛永寺根本中堂があった。その説明が大噴水の動物園寄りに、当時の様子を描いたレリーフと共にある。筆者の知る限りでは、大噴水のできる直前は、桜並木だった。当時の桜の木はまだ若木だったので、戦後の焼け野原を整備して植えたのだと思う。また、この辺りは、東京タワーに替わる電波塔の代替地候補としても話題になっている。

ボードワン像

(43) ボードワン像

   医学講師として文久2年(1862)から明治4年(1871)まで滞日したオランダ一等軍医。この地域が上野戦争で荒廃したのを機に、大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士は、すぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、明治6年(1873)公園が誕生した。碑は、上野恩賜公園100年を記念し昭和48年(1973)10月に建てられた。地元観光連盟からの要望に応えオランダ政府が同国の彫刻家に制作を依頼したが、手違いからボードワンの弟で駐日オランダ領事の写真をもとに作ってしまったことが、昭和59年(1984)になって判明した。その後デリケートな問題として東京都も静観し、33年間も放置されたままとなった。これを知った大阪市の法性寺の山本信行住職が都庁やオランダ大使館と交渉し自ら資金を提供し、平成18年(2006)10月6日に正しいボードワン博士像に交換された。



(44) 谷文晁碑(たにぶんちょうひ)

谷文晁碑

   宝暦13−天保11(1763-1840)。江戸後期の文人画家。下谷根岸の生まれ。碑は90年忌を記念して昭和6年(1931)に建てられた。
不忍池弁天堂前の手水鉢の天井に谷文晁(たにぶんちょう)作の「雲龍の図」があったことを思い出していただけただろうか。
碑は、東京都美術館の北側の外れ、道路沿いにある。木陰の中の大きな岩に「碑晁文」と右から左に彫ってあるだけなので、見過ごしやすい。



東京都美術館

(45) 東京都美術館(とうきょうとびじゅつかん)

   当該建物は新館として昭和50年(1975)9月に開館。東京都美術館は、大正15年(1926)東京府美術館として創設。平成7年((1995)に江東区に東京都現代美術館の開館に伴い作品の保存・収集等の事業が一部移管された。現在は、貸館事業として美術団体の公募会場に、また新聞社等との共済企画展示を開催している。なお、美術図書室を一般公開している。この辺りは、古代には蛇塚古墳があった。江戸時代には、藤堂高虎の屋敷内であったが、寛永寺造営のため退去させられ寛永寺の境内となる。明治後日長原と呼ばれる緑地で、戦後俗称二本杉原と呼ばれる運動広場となった。

問い合せ:Tel 03-3823-6921 開館時間:9時〜17時(入場は16時)
休館日:公募展示室=第3月曜日(祝日の場合は翌日)。企画展示室=月曜(祝日の場合は翌日)。年末年始。7月中下旬。1月中旬
観覧料:展示内容により異なる
ホームページhttp://www.tobikan.jp/

奏楽堂

(46) 旧東京音楽学校奏楽堂(そうがくどう)

   パイプオルガンのある音楽ホールと資料室。演奏会のないときは見学できる。東京音楽学校は、東京芸術大学音学部の前身で、明治20年(1887)10月4日文部省大臣官房直属の機関であった音楽取調掛の掛長であった伊沢修二の他、菊池大麓外山正一穂積陳重ら当時の代表的学者7名が連署した「音楽学校設立ノ儀ニ付建議」に基づき、同掛を改称し設置、伊沢が事実上の初代校長に就任した。木造総二階建て、桟瓦葺で、中央家と翼家からなっていて、明治23年(1890)に開業した。奏楽堂は、本館中央家二階にある講堂兼音楽ホールのこと。老朽化のため昭和58年(1983)に台東区が東京芸術大学より譲り受け、翼家の部分の一部を省略して芸術大学敷地内から昭和62年(1987)移築したもの。二階にあるホールの舞台では、かつて滝廉太郎がピアノを弾き山田耕筰が歌い、三浦環がデビューした。パイプオルガンは、大正9年(1920)に徳川頼貞が英国から輸入したが、関東大震災で被災し昭和3年(1928)に奏楽堂に寄贈されたもの。アボット・スミス製でパイプ数1、379本。空気式アクション。なお、庭には滝廉太郎の銅像(同窓の朝倉文夫作)がある。

問い合せ:Tel 03-3824-1988
開館時間:9時30分〜16時30分
公開日:日・火・木(水・金・土は、ホール使用のないとき)
休館日:月曜(祝日の場合は、翌日)。年末年始。特別整理期間
ホームページhttp://www.geidai.ac.jp/

(47) 旧博物館動物園前駅(きゅうはくぶつかんどうぶつえんまええき)

旧博物館動物園前駅

  京成電車の駅だった。現在も電車は地下を通っている。停まらなくなったので平成9年(1997)3月限りで閉鎖したもの。ホーム反対側の出入り口が、旧動物園正門寄りにある。撤去の話もあるようだが、この国会議事堂のような独特の様式が惜しまれ、残されているとか。駅舎は、現在でも容易にわかるように旧帝国博物館敷地の角地にあり、宮内省の管轄下にあった。このため京成電車を地下に通すということは、御前会議(天皇陛下臨席の会議)での決議事項だったとか。 



岡倉天心像

(48) 東京芸術大学美術館(とうきょうげいじゅつだいがくびじゅつかん)

   所蔵品の増加と設備の老朽化にともない建設され、平成8年(1996)着工、平成10年(1998)開館。資料室を美術館とした。常設展がないため展覧会開催時のみ入館可。観覧料、展覧会スケジュール、休館日などはホームページで確認をすること。校内の庭には、フェノロサ碑岡倉天心像があるが、一般の者が見られるのは、芸大祭(秋)のときだけ。

ホームページhttp://www.geidai.ac.jp/museum/

(49) 黒田記念館(くろだきねんかん)

黒田記念館

   明治・大正期の黒田清輝画伯の絵画が観賞できる。東京国立文化財研究所の一部だが、研究所本体は、平成12年(2000)4月に国立博物館の平成館裏に移り、その折り若干のリニュアルを行った。黒田清輝(慶応2年〜大正13年:1866−1924)は、明治時代の洋画家で、日本近代洋風画の移入者。当記念館は黒田清輝の遺言と遺産により昭和3年(1928)に建てられたもので、帝国美術院の付属研究所だった。設計は、芸大陳列館、旧東京都美術館(現存しない)とともに、当時、東京美術学校教授で建築を担当していた岡田信一郎(1883-1932)の美術館三部作の一つ。この記念館は、中世ヨーロッパの貴族の館を参照したといわれていて、茶色のスクラッチタイル貼り。二階部分の展示室は、窓を作らず、天窓とし、トスカナ様式の柱をポイントとしている。展示室には、昭和3年(1928)の作である「湖畔」など40点ばかりが展示されている。なお、平成16(2004)年12月1日より、黒田記念館では、午後5時から9時までライトアップを再開した。
全部見てもさほどの時間がかからないので、開館時間帯であれば、ぜひ立ち寄ると良い。

開館時間:午後1時〜午後4時
公開日:木曜日、土曜日
入舘料:無料
ホームページhttp://www.tobunken.go.jp/kuroda/

国際こども図書館

(50) 国際こども図書館(こくさいこどもとしょかん)

   平成14(2002)年5月5日に全面改修オープンした。国会図書館上野支部である。芦原英了コレクションがあった。
入り口には文豪 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の横顔のレリーフのある噴水は、昔のまま残されている。小倉右一郎作。台上では七人の子供が水を飲んでいる。建碑には、「荒城の月」の作詞で名高い、詩人土井晩翠と晩翠の子英一、当時の上野図書館長松本氏らの尽力が記されている。なお、横顔なのは、左眼を失明していたからと思われる。

明治30年(1897)の「帝国図書館官制」にしたがい、東洋一の大図書館を建てようと始め、文部省建築課長の久留正道がフランス・アピール様式で設計した。しかし、工事期間中に日露戦争が勃発、財政難となったため第一期工事に8年もかかり、結局、計画の三分の一しかできあがらなかった。このため、玄関も半地下に降りてから入るという半端なものとなった(現在はない)。明治39年(1906)の本で初めての国立図書館として「帝国図書館」として開館。昭和24年(1949)に新しい国会図書館が設立されて、その支部となった。

「国際こども図書館」とはいえ、目的は子供用ではないので念のため。子供用の図書館だと誤解されることが多い。子供が入れる部屋は、限られている。資料は子供用図書であるが、学者や教育者が利用するための施設である。もちろん、一般でも利用できる。シーンと静まり返った資料室にはゲートがあり、物見遊山での入室はできない。なお、一階には、ガラス張りの明るい喫茶店がある。

問い合せ:東京都上野公園12-49 Tel 03-3827-2053
開館時間:午前9時30分〜午後5時
休館日:月曜日、5月5日を除く国民の休日・祝日、年末年始、第3水曜日(資料整理日)
休室日:2F「第一・第二資料室」:日曜日、3F「ミュージアム」:展示会準備期間
ホームページhttp://www.kodomo.go.jp/

(51) 旧因州池田屋敷表門(きゅういんしゅういけだやしきおもてもん)

旧因州池田屋敷表門

   因州(鳥取県)池田藩のもので、江戸時代末期の大名屋敷の門として最も格調が高いもの。丸の内から移築された。土曜・日曜には、門が開放され、国立博物館の臨時出口となる。門の中に白梅があり、春には開放された門扉から、良く見えて素晴らしい構図となる。


 
国立博物館

(52) 東京国立博物館(こくりつはくぶつかん)

   もと寛永寺本坊のあったところ。本館は、昭和13年(1938)に完成した。ジョサイア・コンドルの設計。東洋館は、昭和43年(1868)、法隆寺宝物館は、平成11年7月、平成館は、平成11年(1999)10月に完成した。中庭左側に見える緑色のドームのある表慶館は、明治33年(1900)皇太子殿下(大正天皇)のご成婚を記念し、明治42年(1909)に開館。重要文化財である。正門を入り右手には、種痘で有名なジェンナーの銅像(米原雲海作)があり、外の道路からも見ることができる。なお、一般的にはあまり知られていないが、資料館を無料で公開している。国際こども図書館前の通用門から入るが、研究者用なので物見遊山では入れない。ぜひ、と言う方は、事前に問い合せしてみてはいかがか。

問い合せ:東京都上野公園13-9 展示の件:Tel 03-5777-8600  その他:03-3822-1111
開館時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)
        原則として4月〜9月の土曜、日曜、祝日、振替休日は18:00まで
        ※入館は閉館の30分前まで
        春の庭園開放は、3月中旬の土曜日から4月中旬の日曜日まで(要確認) 休館日:月曜日(ただし祝日または振替休日の場合は翌日に休館)
        年末年始(12月28日〜1月1日)
        ※ゴールデンウイーク期間と夏休み期間中(7月20日〜8月31日)は、原則として無休
野口英世像
料金:大人420(210)円,大学生130(70)円 ※ ( ) 内は20名以上の団体料金
       その他、優遇料金、特別展料金などあり。要問い合せ
       資料館は、無料。詳細はホームページ参照
ホームページhttp://www.tnm.go.jp

(53) 野口英世像(のぐちひでよぞう)

  野口英世は、明治から昭和の初期までの細菌学者。日本の偉人伝の中に必ずあり、説明は省略する。白衣姿で右手でかざした試験管を見ている高さ4.5m(台座含む)の立像。台座の英語のようにみえる文章は、ラテン語で「人類の幸福のために」とある。左手はポケットの中だ。
昭和26年(1951)日本中の子ども達から基金を募り建てられた。作者は、多摩美術大学教授吉田三郎。なぜ、この地に野口英世の像があるのかは、像前の説明文を読んでも良く分からない。  



(54) 国立科学博物館(こくりつかがくはくぶつかん)

国立科学博物館

問い合せ:東京都上野公園7-20 展示の件 Tel 03-577-8600 その他 03-3822-0114
開館時間:9:00 〜16:30 (入館は16:00 まで)
          ■ 特別展等の場合は延長することがある。
休館日:毎週月曜日(日・月曜日が祝日の場合は火曜日)
        年末年始(12月28日〜1月1日)
料金:常設展示 大人・大学生470円(210円)、小・中・高生70円(40円) カッコは、20名以上の団体
      特別展示は、別料金
ホームページhttp://www.kahaku.go.jp
日本学士院

(55) 日本学士院(にほんがくしいん)

   日本学士院法が昭和31年(平成11年改定)にでき、概ね次のようなことが定められている。
(目的)第1条 日本学士院は、学術上功績顕著な科学者を優遇するための機関とし、この法律の定めるところにより、学術の発達に寄与するため必要な事業を行うことを目的とする。
(組織)第2条 日本学士院は、日本学士院会員(以下「会員」という。)で組織する。2 会員の定員は、150人とする。3 日本学士院に、次の2部を置き、会員は、その専攻する部門により、いずれかの部に分属する。
第1部  人文科学部門
第2部  自然科学部門
(会員)第3条 会員は、学術上功績顕著な科学者のうちから、日本学士院の定めるところにより、日本学士院において選定する。2 会員は、終身とする。3 会員は、非常勤とする。4 会員は、総会において、学術上の論文を提出し、又は紹介することができる。
以下省略。要するに文部科学省の外郭団体。

ホームページhttp://www.japan-acad.go.jp

両大師

(56) 両大師(りょうだいし)

   開山堂、慈眼堂、大師堂ともいわれるが、平成元年9月に放火に遭い全焼し平成5年に再建したもの。第18代比叡山慈恵大師良源大僧正と寛永寺開山の慈眼大師天海大僧正の二師が合祀してあるため両大師と呼ばれるようになった。慈恵大師像(民部法眼筆)、慈眼大師像(狩野探幽筆)が安置されている。慈恵大師は生前から病魔、悪魔を退散させる力があるとして、没後も厄除け神に祀られるほどで、没した正月三日の命日の元三詣には大勢の参拝者が訪れたという。
    両大師の東側の門(向かって右側)は、寛永時代に作られた旧寛永寺本坊正門であり、重要文化財だ。本坊とは輪王寺宮の御座所のこと。上野戦争後、帝室博物館(現、国立博物館)建設のときに正門として利用されていたが、関東大震災で博物館を再建したおりに現在のところに移築された。
また、境内に「御車返し(みぐるまかえし)の桜」がある。この桜は一本の木に一重と八重の花が同時に咲く。後水尾天皇が花見を終えた帰路に花の余りの美しさに牛車を返して再びご覧になったことから、御車返しの桜と呼ばれるようになった。しかし、これはサクラの種類を言うのであって、ここの木を後水尾天皇がご覧になったわけではない。
境内には他に虚空菩薩(こくぞうぼさつ)阿弥陀如来、地蔵菩薩がある。本堂前の青銅灯篭は徳川御三家(一橋、田安、清水)が奉納したもの。
科学博物館側の通りから見ると、左側の門と国立博物館側の通りとの間に、かなりのスペースがあることに気が付かれるだろう。この部分の左半分は、瓦塀に囲まれているが、実は台東区の資材置き場で、砂利などが置かれている。右半分の万年塀に囲まれた部分の北側には、輪王寺宮歴代墓所がある(原則非公開)。内容は、慈性親王墓・公璋親王墓・公啓親王墓・公紹親王墓・舜仁親王墓・公寛親王墓・公遵親王髪爪塔である。

旧寛永寺本坊表門

(57) 旧寛永寺本坊表門(きゅうかんえいじほんぼうおもてもん)

   輪王寺宮の住まいであった旧寛永寺本坊は、現在の東京国立博物館のところにあった。明治15年〜大正14年(1882-1923)までは、博物館の正門だった。門には上野戦争時の鉄砲の弾の跡がある。重要文化財である。江戸時代初期の大規模な三間薬医門。両脇に潜門がある。

(58) 殉死者の墓(じゅんししゃのはか)

殉死者の墓

   慶安4年(1651)4月、徳川家光が死去したのに伴い、その後を追って堀田正盛、阿部重次など家光の家臣5名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣4名とその家臣8名の墓がある。その12年後、寛文3年(1663)に幕府は殉死を禁止した。平成17年(2005)に東京大空襲の慰霊碑が、門前にできた。落語家故林家三平氏の奥様の海老名香葉子さんが中心となり戦後60年を記念して建立した。「慰霊碑 悲しみの東京大空襲」とある。