国立博物館裏の寛永寺から言問通りに沿って西に桜木と呼ばれる町が続くが、この辺りから北側が谷中である。日暮里あたりまで広がる。散策のルートの都合で、上野公園、桜木、谷中の名所が順不同で説明されることをご了承いただきたい。
谷中という地名から谷合をイメージするが、実際は台地にかかる部分の方が広い。台地の東側にはJR山手線が走り、千葉県に至るまでの低地となる。台地の西側は一部が根津谷にかかっている。昔は根津や千駄木など谷合の方まで谷中と称したらしい。根津や千駄木とは地理的にも文化的にも一線を画す。谷根千として一緒に扱われるのこともあるが、地理的には藍染川で区切られている。藍染川から根津・千駄木側に寺院はほとんど無い。文化的には谷中が江戸の香りがするのに比べ、千駄木はその多くが本郷台地にかかっていて明治の香りがする。料理屋や八百屋で聞くことがある「やなか」といえば「谷中生姜」つまりショウガのことである。谷中生姜は、筋が少なく味噌などを付けてそのまま食べられ柔らかい。昔は谷中一帯にショウガの畑が広がっており名産だった。関西方面には無い種類だときく。谷中は寺の街。70とも80ともいわれる寺院が軒を連ねる街である。しかし、谷中の散策の醍醐味は上野などと異なり路地にある。歴史上の有名人の足跡や江戸の文化を覗うことができる。大きな名所などないが、江戸から昭和前期の雰囲気を感じることができる。
なお、朝倉彫塑館や公設館は休館なので月曜日、金曜日は、避けたい。(現在、朝倉文夫の晩年の状態に建物を戻す工事が行われていて長期休館中)
当ツアーは、一筆書きの要領で案内するようにしているが、そのため回りきれない所や戻る所も出ることをご理解いただきたい。また、1日で周ることは時間的、歩行距離的にかなり厳しいので、2〜3回に日を分けて歩くか、あらかじめ立ち寄るところを選んでおくことをお薦めする。もし、1日で周りたいのであれば、早朝より始め、早足で歩いても陽が落ちるまでかかることをご留意願いたい。また、このツアーは、鶯谷駅南口からスタートしている。「上野公園ツアー」の続きとしても都合が良いし、ぜひ見学して頂きたい所があるからである。
鶯谷駅南口から忍ヶ丘中学校に沿って坂を上がる。交差点を右に、国立博物館裏通りを行くと、右側に徳川家綱勅額門がある。この門の裏側一帯は、寛永寺の墓地だ。すぐ先の入口を入る。会釈をして入れてもらおう。真っ直ぐに墓地内の通路を30mほど行った左側の通路をわずかに入ったところに蝶の形をした三浦環(みうらたまき)の墓がある。
墓地内の元の通路に戻り、進むと右に少し太目の通路があるので右に曲がる。前方に何やら赤い建物が見える。徳川家綱廟の水盤舎だ。水盤舎前の仮説ごしらえの坂を降りると左側に鉄格子の扉がある。唐門のあった所らしい。中は非公開だ。覗くと、四代将軍徳川家綱(厳有院)墓の宝塔が見える。ほとんど見ることはできないが、右側には、十代将軍徳川家治(浚明院)墓があり、さらに右には、十一代将軍徳川家斉(文恭院)墓がある。さらに右側には徳川家光(大猷院)墓(位牌墓?)があるらしい。ただし、実際の墓は日光にあるので形だけ。鉄格子扉の背中側の塀の向う側辺りには平櫛田中墓がある。元の通路を戻り始めると、左側奥(国立博物館方面)に見えるのが、先程道路側から見た徳川家綱勅額門の内側である。行ってみよう。門には触れないのがマナー。
(59) 徳川家綱霊廟勅額門(とくがわいえつなれいびょうちょくがくもん)
勅額門とは、時の天皇直筆の額のある門という意味である。家綱の霊廟の一部は、維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、災いを免れた。勅額門の形式は、四脚門、切妻造、前後軒唐破風付き、銅瓦葺。
(60) 家綱廟水盤舎(すいばんしゃ)
お参りの際に手を清めるところ。水盤舎(重要文化財)の後ろに見えるのが、廟(びょう)の入口(たぶん元唐門)で、全体を「お霊屋」と呼ぶらしい。このお霊屋を「一のお霊屋」といい、四代家綱、十代家治、十一代家斉の3人が祀られている。霊廟を外側より奥に回ると写真のように家斉墓の宝塔の一部が木々の間から見える。
(61) 徳川家綱墓(とくがわいえつなのはか)
階段の上が鋳抜門(いぬきもん)。唐銅(からかね:銅と錫の合金)製。奥に見えるのが宝塔。宝塔は、当初石造りだったものを享保年間に五代綱吉が唐銅に造りなおしたもので筒部分の厚さは12cmもある。鋳抜門の内側は、浄土(仏が住む世界)であり、将軍といえども鋳抜門の内側には入れなかったそうだ。暗くて門の絵柄までは見えないが、松竹梅のおめでたい文様だとか。また、宝塔は、法華経の思想にもとづいたもので、宝塔の中にご遺体があるのではなく、その下、数メートルの地下にある。
(62) 三浦環墓(みうらたまきのはか)
明治17年〜昭和21年(1884-1946)。東京都出身。ソプラノ歌手として活躍した日本最初の国際的プリマドンナ。明治37年(1904)東京音楽学校卒。明治43年(1910)帝劇歌劇部専属歌手となる。欧米各地のオペラ劇場で公演し、とくにプッチーニの「蝶々夫人」は有名。昭和11年(1936)以降は、国内で自らが翻訳した日本語の「蝶々夫人」などを上演。墓石は、寛永寺第一霊廟の入り口近くにあり蝶の形をしていて、「Madam Butterfly」と刻まれている。傍らの碑には、次の詩が書いてある。
葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな
(63) 徳川綱吉霊廟勅額門(とくがわつなよしれいびょうちょくがくもん)
(64) 国立文化財研究所(こくりつぶんかざいけんきゅうじょ)
昭和5年(1930)日本人で初めてバーミヤン遺跡を調査した尾高鮮之助(1901〜1933)が、当研究所の創設に参画し、帝国美術院付属美術研究所として創設される。昭和22年(1947) 国立博物館附属美術研究所となる 。昭和27年(1952)東京文化財研究所となり美術部、芸能部、保存科学部、庶務室が置かれる 。昭和29年(1954)東京国立文化財研究所となる。 昭和43年(1968)文化庁の附属機関となる。 平成13年4月1日独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所となる。(65) 東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)
(66) 滋海僧正墓(じかいそうじょうのはか)
寛永元年〜元禄7年(1624-1694)。寛永寺一山を統括する学頭(輪王寺宮代理)で凌雲院住職。滋海僧正墓(東京都指定旧跡)は、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山の代表格である凌雲院(りょううんいん)に入った。墓石は、正面は聖観世音菩薩の像となっている。右側に「当山学頭第四世贈大僧正慈海」、左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」とある。初め凌雲院内にあったが、昭和33年(1958)東京文化会館建設のため寛永寺境内に移った。(67) 蟲塚(むしつか)
(69) 上野戦争碑記と戊辰戦争東軍慰霊碑
(70) 寿養院(じゅよういん)
笠森稲荷神社は、旧感応寺(現天王寺)西門前の子院・福泉院内に祀られていたが、上野戦争で焼失し福泉院が廃寺となったのを機に、笠森稲荷の本尊である蛇枳尼天(だきにてん)を、寛永寺の子院である寿養院に移し、現在に至っている。福泉院跡には功徳林寺が建てられた。(71) 津梁院(しんりょういん)・津軽信枚墓・町田久成供養塔
(72) 浄名院(じょうみょういん)
寛文6年(1666)の創建。寛永寺36坊の一つで浄円院といっていたものを改名したもの。徳川四代将軍家綱の母宝樹院の菩提所となった。享保8年(1723)安楽律宗となって浄名院と改名した。この寺には信者の寄進による地蔵尊(8万4千体地蔵)があって実にみごとに整列している。これらの地蔵像は、明治9年(1876)浄名院38世の妙運大和尚の発願による。地蔵像奉納には明治に有名人たちが率先して協力した。北白川宮能久(よしひら)親王、歌舞伎役者の五代目尾上菊五郎、陸奥宗光、大山巌、犬養毅らが名を連ねているとか。境内に洗い地蔵があり、自分の患っている部分をタワシで洗うと御利益があるという。また、へちま地蔵があり、9月25日にへちま供養が行われ咳、喘息に悩む人々が訪れる。縁日は24日で門前に露店が出る。
(73) 平櫛田中の旧居(ひらぐしでんちゅう)
明治5年〜昭和5年(1872-1979)。明治30年(1897)に岡山県井原市から上京、岡倉天心、高村光雲に師事。東京美術学校(現東京芸術大学)の木彫の教授を勤める。作品には「鏡獅子」「五浦釣人」など。また、当ツアーの後半で訪れる岡倉天心記念公園内の六角堂内の岡倉天心像は、平櫛田中の作である。この旧居は、かなり傷んでいてボランティアのNPOが維持に腐心している。アトリエと母屋が斜めの角度でつながっているが、これは、アトリエに入る光線の具合を考えて建築したからだそうだ。
(74) 明治大学創立者岸本辰雄墓(のはか)
明治14年1月岸本辰雄は、宮城浩蔵、矢代操(1852-1891)と共に明治法律学校を創立し、明治大学の基礎を築いた。墓所前に説明板がある。
(75) 徳川慶喜墓(とくがわよしのぶのはか)
徳川十五代将軍。将軍の墓にしては、勅額門や唐門などの形式を継承していない神式の質素なもので、隣には妻美賀子の墓、周りに側室の墓がある。都史跡である。大正2年(1913)11月22日、午前4時、肺炎による心臓麻痺で死亡。葬儀は寛永寺内の齋場で神式で行なわれた。野村敏雄の「葬送屋菊太郎」には、この葬儀の様子が詳しく記述されている。
(76) ニコライ墓
天保7年〜大正1年(1836-1912)。ゴロヴィニーンの「日本幽田記」を読んで日本宣教を思い立ち、修道士としてニコライ・カサーツキンと改名して函館の領事館付き司祭として天久元年(1861)に来日。のち東京に出て築地港町に居を定めて明治8年(1875)神田駿河台でロシア語を教えながら伝道を開始した。大聖堂の建築の基金を得るため一旦明治12年(1879)に帰国し、主教に任ぜられ再び明治13年(1880)に来日して明治24年(1891)に聖堂(ニコライ堂)を東京駿河台に建てた。明治39年(1904)に大主教となる。没後、昭和45年(1970)4月、ロシア傘下の教会から、日本自治独立正教会(日本ハリストス正教会教団)となり、その功績が広く世界に認められ、日本最初の聖人として列聖された。
(77) 谷中霊園・谷中墓地
明治5年(1872)に徳川家の墓地と天王寺境内跡を合わせて墓地とした。有名人の墓も多く、朝倉文夫、塩谷宕陰、横山大観、長谷川一夫、渋沢栄一などの墓がある。図面を参照し、探し求めるのも面白い。現在は、正しくは、東京都谷中霊園といい、東京都の公共墓地で墓碑は7000余といわれる。新規の受け入れはしていない。散策時に墓地分譲ののぼり旗をみかけるが、これは、寛永寺や天王寺の管轄区域のもので、その境目は、一見してもわからない。たとえば、徳川慶喜墓は寛永寺の管轄(寛永寺谷中墓地)である。かなり広い範囲で工事をしているところは寛永寺谷中墓地と考えてほぼ間違いない。徳川田安家墓地、徳川清水家墓地、将軍妻・生母・側室墓地などである。なんといっても十一代将軍徳川家斉だけでも40人の側室がいたというから、広い墓地が必要なことも納得である。また、天王寺前から朝倉彫塑館裏方向にかけては、天王寺の管轄だ。了イ完寺(りょうごんじ)管轄もある。このため、この墓地地区一帯を総称して谷中墓地と呼んでいる。
都営霊園のなりたちは次のとおり。
江戸では、宗派を問わず檀家の埋葬は、その寺の附属墓地だったが、明治維新の宗教革命により神道を国教化するための「廃仏棄釈」政策により土葬による神葬墓地が必要となった。東京府はその場所の設営にあたり、明治22年(1889)の市区改正事業を機に青山、雑司が谷、渋谷、染井、谷中、亀戸の6箇所を府から東京市に移した。これが都営霊園となった。あらためて考えてみると○○神社墓地というのは聞いたことが無い。
(78) 花重(はなじゅう)と茶屋
旧天王寺門前に墓参、寺院用しきびを中心に扱う店として明治7年(1874)に開店。建物も当時の様子を残している。花重の通り向いや並びに茶屋がある。昔の葬儀は土葬のため時間がかかり、そのための休憩所として茶屋ができた。今は、花、線香の提供、墓掃除代行などをしている。また、平成21年(2009)に谷中霊園のさくら通りに入る花重前の道路は、電信柱が撤去され観光用に整備された。
(79) 高橋お伝招魂碑
嘉永3年〜明治12年(1850-1879)。最初の夫であった浪之助がハンセン病になり、身体の自由を失ったので、これを毒殺して他の男のもとへ走り、その後各地を放浪し、悪事を重ねた。明治9年(1876)浅草蔵前の旅館で古着屋吉蔵をだまして殺害。所持金を奪って逃走したが、まもなく京橋で捕らわれ、明治12年(1879)死刑となった。このストーリーを仮名垣魯文が ノンフィクション小説「高橋阿伝夜叉譚」として売り出し、多くの読者を得た。碑は、お伝の夫小川市太郎と仮名垣魯文が明治14年(1881)の3回忌に建てた。碑の裏面には、歌舞伎役者の尾上菊五郎や市川左団次など寄付者名が見られる。
(80) 川上音二郎碑
「墓」と表記している資料もあるが「碑」である。川上音二郎は明治の政治家で新派俳優。大正3年(1914)に高輪泉岳寺から移したと台座の裏面に記述してある。しかし、前面の文を読むと、この円筒形の台座は、妻定奴が像を谷中墓地に建てたとある。つまり、初めから谷中に建て銅像の台座が残っているのである。墓は、九州博多の承天寺にある。像は、戦時中の金属供出で壊された。ネームプレートは平成18年(2006)に発見し取り付けたもの。台座前面の文章の冒頭は下記のとおり。
故川上音二郎君は博多の人 壮年身を政界に投ず 後感ずる所あり 同志を糾合して書生劇を創始す 新派劇の今日ある葢君に負う所大なりと謂ふべし 君歿するや貞奴夫人■(が?)像を■(鋳?)造して之を谷中墓地に建立し其功績を不朽に傳へんとす 今次事変勃発戦果益々挙り 皇威八紘に振ふ ■れとも大東亜共栄圏確立の聖業たるや前途…(以下省略)
(81) 長谷川一夫墓
長谷川一夫の墓は京都は伏見の極楽寺と東京谷中霊園(駐在所前)に分骨されている。東京のものは、参拝者の便宜を図って設けたものと思われる。
(82) 谷中五重塔跡
寛永21年(1644)に感応寺(現、天王寺)境内に建てられたが、明和9年(1772)焼失し寛政3年(1791)に再建された。九輪までの高さ約34.178メートル。寛永寺、増上寺、浅草寺と共に「江戸四塔」と言われ雄大さを誇った。明治末に東京市に寄付され、関東大震災や空襲にも残ったが、昭和32年(1957)7月6日午前3時過ぎ放火心中で焼失した。現在再建話しもあるが長い間実現していない。この五重塔は、下谷(したや)に生まれた幸田露伴の小説「五重塔」のモデルといわれている。
(83) 天王寺・大仏
谷中墓地の桜並木の突き当たりにあるのが護国山天王寺。旧感応寺。日蓮上人の弟子の日源上人が文永11年(1274)に建てた。改宗後天台宗となる。谷中最古の寺。谷中七福神の毘沙門天を奉安してあり、正月と毎月1日と15日に本尊をご開帳している。江戸時代には、寺を維持する資金調達のため、浅草寺・護国寺(湯島天神、目黒不動尊の説あり)とともに江戸三大富くじ興行を許可された寺であった。よく儲かり門前に僧侶専用の水茶屋ができたそうだ。川柳に
すだれから 衣のすそを つかまえる
武士はいや 町人すかぬ いろは茶屋
などと詠まれたとか。いろは茶屋とは岡場所のこと。境内には元禄3年(1690)に寄進された露座大仏がある。紅葉の季節や雪の降った時など良い写真スポットだ。位牌堂には、江戸時代に作られたとされる1m余りの木製の閻魔(えんま)座像がある。他の二つは長久寺と立善寺にある。
また、彰義隊の分屯地でもあった。上野戦争で敗れたため、明治7年(1875)寺領地の大半を没収され谷中霊園となった。
感応寺の時代は、日蓮宗であったが、法華経信者以外からは物を受けず施さずという不受不施派があり、幕府にも逆らっていた。そうでない身延山派との間で争いがあり、元禄12年(1699)に幕府により寺領没収となり、寛永寺と同じ天台宗に改宗させられ、寛永寺傘下の寺となった。名称の変更は、かなり後の天保4年(1832)長耀山感応寺から護国山天王寺へと変えられた。なお、同名異寺の感応寺が別に谷中にある。
(84) 横綱常陸山谷右衛門墓
明治6年〜大正11年(1873-1922)。第19代横綱。大正3年(1914)に引退後に出羽海部屋を創設。
(85) 本行寺
日蓮宗。大永6年(1526)、江戸城内平河口に太田道潅の孫、太田資高が創建。神田を経て宝永6年(1709)に当地に移った。日暮里駅を作ったときに、現鉄道側を大きく削られた。筑波山人による「道灌丘碑」がある。これは「道灌物見塚」といわれ、江戸城の北の防衛線としての見晴らしの良い見張り場であった。「陽炎や道灌どのの物見塚」という一茶の碑や、「ほっと東京に来ている月がある」の山頭火の句碑がある。太田道灌は、江戸城の出城としていくつかの砦を作った。一つは北区赤羽の道灌山に稲付城跡と静勝寺、もう一つの道灌山は、ここ荒川区西日暮里の高台である。ここから諏方神社までの一帯は江戸時代には「虫聴き」と「観月」の名所だったので、「月見寺」ともいわれる。なお、都旧跡指定の市河寛斎、市河米庵、および江戸末期に外国奉行・軍艦奉行・若年寄などの要職を歴任した永井尚志(ながいなおゆき)の墓がある。なお、永井尚志墓への途中の通路左側に太田資寧墓がある。太田資寧は、5000石高級旗本小普請組士。娘の於加久は、十二代将軍家慶(1793-1853)の側室。資寧の子に長崎奉行の岡部駿河守長常がいる。太田氏の菩提寺でもあり太田道潅の末裔なのかも知れないが不明。
(86) 経王寺
大黒山経王寺。明暦元年(1655)当地の豪農冠勝平が要詮院日慶のために創建。大黒堂には、日蓮聖人作と伝えられる開運大黒天が安置されている。よく谷中七福神のうちの大黒天と間違われるが、これは間違い(護国院経王寺などと誤記述してあるHPもある)。谷中七福神の大黒天は、東京芸術大学裏の護国院大黒天である。慶応4年(1868)の上野戦争の際、彰義隊側に加担したてこもったため、新政府軍の砲撃を受ける。山門にその時の弾痕が残っている。山門の枝垂れ桜、境内のつつじが美しい。
(87) 朝倉彫塑館
朝倉文夫(明治16年〜昭和39年:1883-1964)は、明治・大正・昭和期の彫刻家。朝倉彫塑館は、朝倉文夫が明治40年(1907)に、後進の指導のために開設した塾で自身の住居だったものを開放した。朝倉文夫は、早稲田大学にある大隈重信の銅像の作者としても有名。
朝倉彫塑館には「五典の水庭」と呼ばれる中庭があり、朝倉文夫が自己反省の場として構成したもので、地下の湧き水を利用し、儒教の五常の教えを造形化した「仁・義・礼・智・信」の大きな石と四季折々に白い花を咲かせる花木がある。特に夕日に輝くメノウの壁の「朝陽の間」は素晴らしい。多くの彫刻作品と作業場を見学できる。とくに大隈重信像のように大きな彫像を制作するための大掛かりなアトリエも圧巻だ。説明員が説明してくれるのがうれしい。現在は、台東区の管理となっている。隣家には北原白秋が、大正15年(1926)から昭和2年(1927)まで住んでいた。また、幸田露伴もこの裏に住んでいた。
問い合せ:東京都台東区谷中7ー18ー10 Tel 03-3821-4549
開館時間:9時30分から16時30分
休館日:月曜、金曜(祝日と重なる場合は翌日)、年末年始、特別整理期間
閲覧料:一般300円(200円)、小中学生150円(100円) かっこ内は、20名以上の団体料金
(88) 四十七士の慰霊塔・桂文楽(四代目)墓・桂三木助(三代目)墓・観音寺
真言宗豊山派。慶長16年(1611)創建。享保元年(1676)に改称するまでは長福寺といった。御府内八十八ヶ所の第四十二番目の札所。赤穂浪士で有名は四十七士が吉良上野介を討ち取るための談合したという寺で、本堂前に朝山和尚の建てた四十七士の慰霊塔がある。赤穂浪士の近松行重と奥田行高と兄弟であった和尚が寺を提供、しばしば浪士らの会合が開かれたという。なお、桂文楽(四代目)墓および桂三木助(三代目)墓がある。
(89) 築地塀(ついじべい)
観音寺の境内南側に沿って建てられた築地塀は、瓦と土を何層にも重ねたように作られていて、幕末の頃に作られたものといわれている。関東大震災で一時倒壊したが、材料を当時のままに修復。今では、谷中の象徴的な建造物となっている。なお、加納院山門(写真では奥側)の直ぐ右側にあたるため、加納院の塀だと誤記した資料もある。この通りは平成21年(2009)に電信柱が撤去され、観光用に整備された。
(90) 狩野芳崖墓・長安寺
大道山長安寺。寛文9年(1669)創建。谷中七福神の寿老人(じゅろうじん)が祭られている。本堂前の板碑は、鎌倉時代のものと室町時代のものであり、元(げん)の国が攻めて来たときに戦死した人も冥福を祈って造られた。また、狩野芳崖(かのうほうがい)と妻ヨシ(明治20年没)の墓がある。本堂前の「狩野芳崖翁碑」には芳崖の略歴が刻んである。大正6年の造立。
狩野芳崖(かのうほうがい) 文政11年〜明治21年(1828-1888)
明治時代の日本画家。山口県出身。19歳で江戸に出て狩野勝川に師事。維新の混乱に遭い、貧窮の時代を過ごすが、明治17年(1887)第2回内国絵画共進会で「桜下勇駒図」などがアメリカ人のフェノロサに認められ教えを受けた。後に、フェノロサ、岡倉天心の主導する日本画革新運動に加わり活躍した。また、東京美術学校(現東京芸術大学)の設立にも尽力したが、開校前に病死。切手で知られている「非母観音図」(重要文化財、東京芸術大学所蔵)、「不動明王」、「大鷲」など数々の名作を残した。
(91) 功徳林寺
浄土宗。かつて福泉院があり、そこに笠森稲荷(かさもりいなり)があった。福泉院が廃寺となった跡地に100年ほど経ってから功徳林寺が建てられたもの。現在境内に見える稲荷は笠森稲荷とは別のもので無関係であり、笠森稲荷だと誤記しているHPもある。現在笠森稲荷は、桜木の寿養院にある。功徳林寺は、明治18年(1885)に伯爵島津忠寛が発起人となって建てた新しい寺。つまり、笠守阿仙の話は明和(1764-1771)の頃であり、功徳林寺ができる100年以上も前のことであるから何も関係がない。谷中墓地の入り口、つまり元の天王寺の表門前辺りは、表門前新茶屋町と呼ばれ、明治2年(1869)から昭和37年(1962)地番改正になるまでは谷中茶屋町と呼ばれていた。
(92) 立原道造墓・多宝院
真言宗。慶長16年(1611)創建。
立原道造(たちはらみちぞう) 大正3年〜昭和14年(1914-1939)
夭折の詩人といわれた。東京市日本橋区橘町に生まれる。父、貞次郎、母、登免。立原姓は母方のもの。先祖には水戸藩の儒学者立原翠軒がいる。東京府立第三中学校時代には、北原白秋を訪問、「学友会誌」、「葛飾集」、「両国閑吟集」、「水晶簾」を発表。第一高等学校理科甲類時代から掘辰雄・室生犀星に師事。昭和9年(1934)東京大学建築学科に入学し、昭和12年(1937)卒業後、建築事務所に入り、5月に「萓草(わすれぐさ)に寄す」、「暁と夕の詩」を刊行し、文京区弥生において青春時代を過ごした。肺を病んで療養のための旅に出、死の直前、昭和14年(1939)第1回中原中也賞を受賞。わずか24歳で没した。文京区弥生2ー4ー5には、立原道造記念館があり、多くの原稿、手製の歌集、詩集、パステル画、設計図、書簡、ノートなどを展示している。
Tel 03-5684-8780(記念館冊子参照)
日蓮宗。神田山感應寺。慶長元年(1596)創建。神田にあった感應寺は、明暦の大火で焼け、谷中に移った。天王寺の改名前も感応寺といい、混同されることもある。この寺には、大正末期に日本に持ち込まれたうちの一本と言われる日本で最古のグレープフルーツの木があり、現在も実を付ける。渋江抽斎墓がある。
(94) 高橋泥舟墓・大雄寺
日蓮宗。慶長9年(1604)創建。高橋泥舟の墓が境内にある。勝海舟、山岡鉄舟と並んで幕末三舟と呼ばれた。山岡鉄舟の義兄(泥舟の妹が鉄舟の妻)にあたり、槍術の達人。幕末では新選組の組長となり、最後まで徳川慶喜を守った。なお、境内には「灯台守」の歌碑がある。山岡鉄舟の墓は、全生庵にある。
(95) 旧吉田屋本店
谷中墓地入り口近くにあった吉田屋酒店が改築の祭に台東区に委譲し、言問通り沿いに移築され保存されている。昭和初期の酒屋の様子を見ることができる。この施設は、不忍池畔の下町風俗資料館の附設展示場である。
開館時間:9時30分〜16時30分
休館日:月曜
入館料:無料
(96) 護国院大黒天
昔は、寛永寺の釈迦堂だった。本堂には釈迦三尊、両脇に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った文殊菩薩と普賢菩薩がまつられている。左壇に千手観音、右壇に大黒天がまつられている。また、現在・過去・未来をあらわす金色の千躰仏が1,350体も安置されている。平岩弓枝著の「御宿かわせみ」の舞台でもある。なお、隣接する都立上野高等学校構内の発掘で護国院の旧墓所の存在が明らかとなった。縁日は、毎月3日。谷中七福神の一つ。谷中七福神は、下記の寺院であるが、詳細は、別ツアーの「谷中七福神巡り」を参照。
不忍池弁天堂の弁財天、護国院の大黒天、天王寺の毘沙門天、長安寺の寿老人、修性院の布袋尊、青雲寺の恵比寿、東覚寺の福禄寿。
日蓮宗。天正年間(1573-1591)に日僚(にちりょう)が建立。江戸時代の儒学者・考証学者である太田錦城の墓がある。
太田錦城(明和2年〜文政8年:1765-1825)は、経学をもって漢代の学は君詁、宋学は義理、清代の学は考証に長ずと論じ、清朝の考証学をとって我が国考証学の先駆となった。
(98) 自性院(じせいいん)
新義真言宗。本覚山宝光寺自性院。慶長16年(1611)創建。御府内八十八ヶ所の第五十三番目。不動明王と愛染明王(あいぜんみょうおう)の像を安置する。愛染明王とは、ヒンズー教から仏教に移入された愛の神。愛欲から生まれ愛欲から離れられないでいる衆生(しゅじょう)の迷いを除くことを念ずる明王で、3つ目6手を持つ。小説家川口松太郎は、本堂前の桂(かつら)の古木から「愛染かつら」のヒントを得、構想をここで練ったといわれている。「花も嵐も踏み越えて・・・」の「旅の夜風」が主題歌の映画「愛染かつら」は昭和13年(1938)9月に封切られた。
(99) 日本美術院(にほんびじゅついん)
明治31年に美術学校を去った岡倉天心を中心として創設された。創設時は、岡倉天心の旧居所である現在の岡倉天心記念公園内にあった。洋画の技法は取り入れるが洋画派そのものは排し、いたずらに過去にとらわれる保守的な日本画を排して、新時代の理想を新しい画風に追求しようとする人たちのグループである。新画風は、描線を主体とした従来の日本画にくらべると一見模糊とした印象から「朦朧画」と酷評された。その画風も下火になり、また天心、大観、春草、観山の外遊が相次ぎ、明治39年(1906)には日本美術院は茨城県の五浦に移り、活動も一時衰えた。大正2年(1913)に亡くなった後横山大観、下村観山、木村武山らが大正3年(1914)にこの地に日本美術院を再建した。現在の建物は、平成12年(2000)頃に建て直したもの。