(99) 大久保主水墓・河鍋暁斎墓・井上毅墓・加藤シヅエ墓・大沼枕山墓・市橋長勝墓・山田武甫墓・瑞林寺(ずいりんじ)
慈雲山瑞輪寺。日蓮宗。天正19年(1591)、日新により創建された。谷中で最大のお寺。わが国水道の創始者である大久保主水(勝五郎忠行)の墓がある。瑞輪寺の境内の八角の井戸は、菓子製造用として大久保主水の子孫の大久保忠記が天保6年(1835)に掘って碑を立てたもの。
また、明治憲法や教育勅語の草案を書き文相にもなった子爵井上毅、大正・昭和期に産児調整運動や女性解放運動をした女性初の国会議員加藤シヅエ、明治の日本画家の河鍋暁斎、江戸時代最後の漢詩人といわれる大沼枕山(おおぬまちんざん)、戦国時代の武将市橋長勝および明治前期の政治家山田武甫(やまだたけとし)の墓がある。なお、昭和55年(1980)に蒲田梅屋敷の御座所が移転している。桂離宮とならび評されるほど立派なものだそうだが非公開。なお、吉良上野介の用心棒の清水一角の墓はないことが確認された。また、越前大岡"家"の墓はある(案内表示あり)が、女性の墓のようだ。江戸捕り物でおなじみの町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)の墓は、神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にある。
(100) 韋駄天(いだてん)の西光寺(さいこうじ)
仏倒山西光寺。真言宗。慶長8年(1603)に藤堂高虎が宥義(ゆうぎ)という僧侶を招き神田に創建した。江戸市街地の改造で当地に移転した。境内に韋駄天の石仏がある。石は朝鮮から運んだといわれる。韋駄天とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奪って逃げた鬼を追いかけて捕らえたり、僧の急難を救うといわれる神様。非常に足の速いことを「韋駄天走り」というが、これが語源である。平成17年(2005)マラッカ海峡で海賊に襲われた船の名前も「韋駄天」だった。
(101) 七面山祖師堂
しゃもじ寺ともいわれる。安産のしゃもじを祭ってある。日蓮上人が罪を許され佐渡から身延山に帰る途中、この地の武士関小次郎長輝の家に一夜の宿を求めた。そのとき長輝の妻は出産で苦しんでいた。そこで日蓮は、しゃもじに曼陀羅経を書いて与えた。それを妻の腹に乗せると易々と子が生まれたという。祀ってあるのはこのお経の書いたしゃもじである。もとは天王寺にあったが、天王寺の改宗でここに移された。なお、東京と冠しているのは、身延山の七面山に対するもの。境内は、瑞輪寺の一部であるが、瑞輪寺の山門は、別にある。
(102) 観智院(かんちいん)
真言宗。慶長16年(1611)、照誉(しょうよ)の創建。御府内八十八ヶ所(ごふないはちじゅうはちかしょ)の第六十三番。御府内とは、江戸時代に江戸城(現在の皇居)を中心として品川、四谷、板橋、千住、本所、深川の内側の地域を指す。弘法大師ゆかりの八十八ヶ所のお寺を巡る有名な四国遍路(四国八十八ヶ所)を模して宝暦5年(1755)頃までに開創された。谷中には、このうち観音寺、加納院、明王院、観智院、多宝院、自性院、長久院の7箇所がある。また、火除不動尊がある。境内に台東初音幼稚園が併設されている。
(103)仮名垣魯文墓・目黄不動・板碑・永久寺(えいきゅうじ)
興福山永久寺。玉林寺の末寺。江戸時代初期の創建。仮名垣魯文(かながきろぶん)の墓がある。猫好きの魯文にちなむ「山猫めおと塚」がある。魯文は、親友の榎本武揚(えのもとたけあき)からもらった猫が死んでしまったときに、この塚を建てた。塚の文字は、太政官記事御用の「東京日日新聞」の主筆であった福地桜痴。
(104) 伊藤玄朴墓・伊東方成墓・高久靄崖墓・高久隆古墓・神波即山墓・天龍院(てんりゅういん)
臨済宗天龍院。寛永7年(1630)に梅ー(ばいがん)が創建。江戸時代には正月に梅の花を幕府に献上していた。蘭法医の伊藤玄朴(いとうげんぱく)、明治天皇の御典医伊藤方成、文人画家の高久靄崖(たかくあいがい)と養子高久隆古(りゅうこ)、豪商で尊王攘夷論者の菊池教中および漢詩人・書家で教育勅語謄本を書いた神波即山(かんなみそくざん)の墓がある。
(105) 日尾荊山墓・本通寺(ほんつうじ)
法華宗。元和元年(1615)、玄昭院日用(にちゅう)が曹洞宗王林寺々有地の一部に創建した。天保9年(1838)現在地に移転。明治元年(1868)上野戦争で彰義隊の拠点となり一時消失した。伝教大師作毘沙門天王木像がある。谷中七福神の一つであった時期があるらしい。現在も毎月3日が毘沙門天の例祭日である。漢学者の日尾荊山(ひおけいざん)の墓碑がある。
(106) 山岡鉄舟墓・三遊亭円朝墓・弘田龍太郎墓・石坂周造墓・松本楓湖墓・山田良政碑・岡田満墓・宮本千代吉・村上俊五郎墓・荒尾精墓・長谷川尚一墓・全生庵(ぜんしょうあん )
明治13年(1880)山岡鉄舟の創建。鉄舟寺(てっしゅうじ)ともいう。臨済宗国泰寺派の寺。明治維新の際、勝海舟や西郷吉之助とともに江戸城の無血開城をなし、江戸を戦火から救った山岡鉄舟の墓、近代落語界名人といわれ、山岡鉄舟も尊敬したといわれる三遊亭円朝の墓がある。墓石の書「三遊亭円朝無舌居士」は、山岡鉄舟の筆による。全生庵前の三崎坂は、円朝の落語の怪談「牡丹灯篭」の舞台となった。全生庵には山岡鉄舟木像(高村光雲作)、観音像百幅(富岡鉄斎作ほか)、幽霊画五十幅(円山応挙、菊地容斉、谷文中、安藤広重作など)、西郷隆盛その他大家の書などが多数所蔵されている。幽霊の絵の殆どは円朝が収集したもの。毎年円朝忌(えんちょうき)のある8月になると一般公開される。また、全生庵前の三崎坂を舞台とした「牡丹灯篭」などの落語も演じられる。また、童謡「叱られて」や「春よ来い」の作曲家弘田龍太郎の墓もある。その他、攘夷派の志士で後に石油業界の先駆者となった石坂周造墓、画家松本楓湖墓、孫文撰文の山田良政碑、新撰組6番小頭の村上俊五郎、日本のアジア外交を憂いた荒尾精墓、および阿部守太郎外務省政務局長暗殺犯人岡田満墓と宮本千代吉墓、国産石油開発の先駆者長谷川尚一墓がある。また、元中曽根首相が座禅を組みに来た寺としても知られている。なお、金ピカの谷中大観音がある。北村西望作、高さ6m余り。平成3年(1991)開眼。
(107) 金子薫園墓・明王院(みょうおういん)
新義真言宗。慶長16年(1611)、弁円(べんえん)の創建。江戸時代初期に神田から移転してきた。御府内八十八ヶ所(ごふないはちじゅうはちかしょ)第五十七番目。歌人の金子薫園(かねこくんえん)の墓がある。
(108) 下村観山墓(しもむらかんざんのはか)・川上不白墓(かわかみふはく)・安立寺
日蓮宗。寛永7年(1630)創建。この辺りを初音(はつね)の森という。安立寺の境内に日本画家の下村観山墓と茶道江戸千家初代宗主川上不白墓がある。
(109) 加納院(かのういん)
新義真言宗。慶長16年(1611)に尊慶が創建。阿弥陀如来と弘法大師をまつってある。御府内八十八ヶ所の第六十四番目の札所。山門が赤いため、この辺では「赤門」といわれている。赤門のすぐ横の観音寺の築地塀を加納院の塀だと勘違いする人もいる。
(110) 蛍坂(ほたるざか)
加納院の赤門を北へ細い路地を行くと急な坂がある。蛍坂である。「ころぶと3年の内に死ぬ」と言い伝えられており三年坂との異名がある。周囲はうっそうと繁った木々があり、野生のリスが見られる。安立寺に続くこの辺りも「初音の森」の一部。享保(1716-1735)頃、陶工尾形乾山が京都の鶯を上野輪王寺の宮、公寛法親王(こうかんほうしんのう)へ献上したところ、宮がこの地に放されたことから命名されたという。明治4年(1871)より昭和37年(1962)に地番改正になるまでこの辺りを初音町と呼んでいた。
(111) 岡倉天心記念公園(おかくらてんしんきねんこうえん)
日本美術界の先覚者である岡倉覚三(後に天心と名乗る)の旧居地で、前期日本美術院の跡。ここには平櫛田中作の「天心座像」奉安の六角堂がある。
(112) 宗林寺(そうりんじ)
日蓮宗。境内に萩が多く、萩寺とも呼ばれている。この付近は蛍沢とか蛍川とも呼ばれ「ほたるざわ」の碑が門前にある。藍染川(谷田川)を背にした湿地に夏の夜には蛍が群れをなして飛んでいたという。家康に仕えた茶道家斎藤六郎左衛門宗林(元亀3(1572)年12月に、三方原の合戦で戦死)が神田に興し、元禄の頃この地に来た。斎藤宗林に関しては諸説があって定かでないが、家康の側近にいて重要な地位にあったといわれる。そのため寺格が高く、住職は十万石の大名と同じ扱いだったという。
(113) 谷中銀座商店街(やなかぎんざしょうてんがい)
日暮里駅から西にまっすぐ来たところにある。入り口のところの石段を「夕焼けだんだん」と呼ばれ、夕焼けの美しいところとして慕われている。また、この辺りは延命寺裏貝塚があり、石段下のビル建設時には、発掘が行われた。商店街は、テレビドラマの背景にもなり、活気のある街である。六地蔵通りを北へ少し行くと花篭などを竹で作る店(翠屋)がある。商店街入り口の角には漢方飴などを売る後藤屋がある。
(114) 大円寺(だいえんじ)
日蓮宗。天正19年(1591)創建。永井荷風選文の「笠森阿仙」の碑と、錦絵の創始者でお仙を描いた鈴木春信(すずきはるのぶ:享保10年〜明和7年:1725-1770)の碑がある。両方とも大正8年(1919)、春信150回忌に建てられたもの。本来は福泉院跡の功徳林寺に建てられるところ間違えてしまったものといわれる。大円寺は「瘡守(かさもり)稲荷」(皮膚病の神様)として有名だったこともあり「笠守(かさもり)稲荷」と同名異神のためよく混同されたという。つまり、大円寺は笠森阿仙とは何も関係がないのであるが、この碑によりややこしくなってしまった。この寺の本堂は二つの本堂が胴で繋ぎ合わされたように繋がっている。右が「瘡守稲荷」のお社殿、左が経王殿で仏殿である。10月中旬の週末には菊祭りが行われる。なお、現、功徳林寺も地理的に笠守稲荷がこの場所にあったというだけで、内容的には笠森阿仙とは何の関係もない。功徳林寺の境内に別の稲荷があるので、これを笠守稲荷だと錯覚しやすい。
笠森阿仙の石碑には、次のように記されている。
女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大州に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙春信が錦絵に面影をとどめて百五十余年都内の粋人春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。 時恰(ときあたか)も大正巳未夏六月 鰹のうまい頃 荷風小史識
(115) 妙円寺(みょうえんじ)
日蓮宗。龍江山妙円寺。慶長4年(1599)、日如(にちにょ)が創建。生髪鬼子母神(せいはつきしぼじん)がまつられている。谷中小学校前の三崎坂(さんさきさか)を登っていくとなだらかに左に曲がる部分があるが、この辺りのお寺の塀が続く様が美しい。妙円寺はこの始まりに位置する。
(116) 本阿弥光悦墓(ほんあみこうえつのはか)・本阿弥光室墓・妙法寺(みょうほうじ)
妙円寺の隣に、立派な山門のあるのが妙法寺。日蓮宗。慶長13年(1608)、日如の創建。本阿弥光悦と本阿弥光室の墓がある。妙円寺とは境内がつながっている。山門から境内に至る石畳のなだらかな坂は素晴らしい。隣に大きなマンションが建ってしまったのが残念。
妙法寺に隣接するマンションのあるところは、「谷中三崎町遺跡」があったところで、その建設に先立ち平成11年(1999)に発掘された。江戸時代の正運寺(しょううんじ)跡でもあり、多数の墓や大型地下室、幕臣井戸氏(どこの井戸氏だか不明)の墓誌や多くの鏡、名前が書かれた土面などが出土した。また、縄文時代の土器も出ている。マンション脇に正運寺跡である旨に説明がある。
上口愚朗コレクション。櫓(やぐら)時計、台時計、掛時計などを展示している。そのうち和時計12種58個は東京都の指定を受けている。1部屋しかない小さな小さな博物館。夏と冬は公開していないので注意。
開館時間:10時〜16時
休館日:月曜。夏(7月〜9月)。冬(?月〜?月)
入館料:大人300円、大高200円、小中100円
(119) 領玄寺の貝塚
日蓮宗。寛永3年(1626)に日長が創建。境内の奥に縄文時代中期の「領玄寺貝塚(りょうげんじかいずか)」があり、隣接の頤神禅院(いしんぜんいん)墓地まで続く。ハマグリ・アサリ等の貝殻、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく:石製矢じり)等の石器、縄文土器などの遺物が発見されている。小さな標識がある。屋内のガラスケースに土器が展示されている。谷中の貝塚は、国立博物館裏から鶯谷にかけて存在した「新坂貝塚」、谷中銀座から延命院裏一帯にあった「延命院裏貝塚」、天王寺五重塔からキリスト教墓地一帯にあった「谷中天王寺貝塚」の4箇所。
(120) 蓮華寺(れんげじ)
赤い門なので赤門の寺と呼ばれている。日蓮宗。寛永7年(1630)、日賢が創建。上野戦争を含めそれ以前の幾多の災害にも遭わず創建時の貴重な建築様式をとどめている。墓所中央に鳥居清長(上野公園ツアー参照)の門下であった浮世絵師細田栄之墓がある。富士松魯中墓は最近になって合祀されてしまった。境内に手漕ぎ井戸がある。手入れの行き届いた境内が美しい。
(121) 頤神禅院(いしんぜんいん)
臨済宗。象頭山頤神院。本郷湯島に頑海が明和5年(1768)に創建し、明治20年(1887)に当地へ移転した。帝釈天(たいしゃくてん)が祭られている。
(122) 絵馬・横綱鳳谷五郎の墓・延寿寺(えんじゅじ)
日蓮宗。明暦3年(1657)創建。延寿寺日苛堂(にっかどう)は、日苛上人を祀った足の神様。日荷上人は、鎌倉時代後期、武蔵国久良岐郡六浦〈むさしのくにくらきのごおりむつら:神奈川県横浜市金沢区)を中心に活動した日蓮宗僧侶。下駄や草履が奉納されている。かつて金沢称名寺の僧と囲碁を打ち、称名寺の仁王尊を賭けたところ日苛が勝ち、この像を背負って金沢から身延山久遠寺〈みのぶさんくおんじ〉山門まで駆け登ったという。もうひとつの伝承は、日荷上人は、六浦で大きな仁王像を造り、日蓮宗本山の身延山山門まで、一昼夜のうちに自ら背負い運び上げたというもの。このため日苛上人は、大力と健脚の神とされ、日荷堂の内部には足・腰の病気平癒を祈願したり、願望成就のお礼のために奉納された絵馬や文字額が多数掲げられている。現存する絵馬は75点、文字額は8点 。年代は、明治時代59点、大正時代4点、昭和時代(戦前)3点、年代不明17点で、昭和20年以後のものはない(台東区調査)。また横綱鳳谷五郎の墓がある。現在でも車椅子の貸し出しステーションとして貢献している。
(123) 玉林寺(ぎょくりんじ)
望湖山玉林寺。曹洞宗。天正19年(1591)創建。本堂裏に椎の大木(樹齢600年、都指定天然記念物)がある。また、美しい庭園があるが残念ながら非公開。
(124) 善光寺坂(ぜんこうじさか)
玉林寺前の坂を善光寺坂と言う。かつて、長野(信濃の国)の善光寺の別院である尼寺があった。信濃坂とも呼ばれていた。現在善光寺という寺はない。坂を登る方向に行くと、隅田川の言問い橋に至るので、言問い通りと一般に呼ばれている。坂を下ると、千代田線根津駅に出る。昔は藍染川ゆかりの「藍染」と呼ばれた地区である。また、戦後は闇市があった。さらに先は、東京大学のある本郷を通り、春日に至る。
(125) 太宰春台墓・天眼寺(てんがんじ)
臨済宗妙心寺派。江戸時代中期の儒学者である太宰春台の墓がある。また、武蔵忍藩(奥平)松平家の菩提寺でもある。
(126) 蒲生君平墓・臨江寺(りんこうじ)
臨済宗大徳寺派。寛永7年(1630)創建。蒲生君平(がもうくんぺい)墓がある。