谷中桜木付近


    正面は瑞輪寺。神田上水の大久保主水墓などがある。時間のない方は、この瑞輪寺と全生庵と徳川慶喜墓だけは必ず訪れて欲しい。門前のマンションの角を右に行き、突き当たりを左に行くと韋駄天(いだてん)西光寺(さいこうじ)、安産しゃもじの七面山祖師堂がある。祖師堂前の路地を入る。戦前に建てられた長屋が残っている。映画やテレビドラマのロケにも良く使われる場所だ。横丁を左に抜ける。先ほど通った三崎坂上のところに戻る。

長屋
    こんどは、三崎坂を下るように進む。昭和初期の雰囲気を残した、伊勢五酒店(Tel03-3821-4557)がある。その先は永久寺だ。門を入った右側に仮名垣魯文墓と正面に山猫めおと塚がある。また、永久寺の並びに伊藤玄朴墓や高久靄崖墓のある天龍院がある。その先には、日尾荊山(ひおけいざん)墓のある本通寺(ほんつうじ)がある。

    本通寺の前に全生庵(ぜんしょうあん)がある。ここには、幕末三舟(さんしゅう)の一人山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)墓や落語家三遊亭円朝墓がある。初代から四代目までの三遊亭円生が同居している。童謡「叱られて」や「春よ来い」の作曲家弘田龍太郎の墓もある。三崎坂を引き返すと歌人の金子薫園(かねこくんえん)墓がある明王院、昭和初期の風合いの伊勢五酒店前には観智院がある。永久寺前の石屋(石六)の脇の路地を入る。この路地もいかにも谷中らしい。下村観山墓の安立寺がある。奥に行くにつれ木々がうっそうとしてくるが、ここが初音の森だったところである。いまだに野生のリスがいる。観察できればラッキーだ。正面の赤門は加納院。右には、先ほど説明した築地塀がある。見落とした方にはチャンス。

六阿弥陀道標
谷中銀座商店街
    加納院前を左にさらに道なりに進む。急な坂道の蛍坂に出る。左側に階段があるが降りずに進もう。下まで降りると角に蛍坂の標識がある。やがて六阿弥陀道にでる。田端の六阿弥陀四番与楽寺から広小路の六阿弥陀五番常楽院に通じていた道である。右に行くと前期日本美術院の跡地の岡倉天心記念公園がある。園内の六角堂の中に岡倉天心像がある。その先は、萩寺として有名な宗林寺がある。秋の萩の花の季節に訪れるとたわわな萩の花を見ることができる。右側のしだれ桜の花の美しい長明寺(日蓮宗。慶長14年(1609)創建)先の坂を「七面坂」といい、坂上の延命院の中に「七面大明神」があることから命名された。

    七面坂方向に行かないで六阿弥陀道を進むと谷中銀座商店街入口にでる。右側に夕焼けだんたんと呼ばれる階段が見える。階段北側(下から見て左)では、貝塚が出て「日暮里延命院貝塚(にっぽりえんめいいんかいづか)」と呼ばれ、昭和62年(1987)発掘調査が行われたことがある。六阿弥陀道をちょと北に行ったところに竹かごの翠屋(みどりや)がある。江戸の伝統技術で作られた花入、食器、置物、谷中七福神人形などを展示即売している。
竹かごの翠屋
また、商店街入り口の後藤の飴では、しょうが飴、ゆず飴など懐かしい飴を製造販売している。谷中銀座商店街の店を覗きながら進むと突き当たりは、よみせ通りだ。この通りは、不忍池に通じていた谷田川跡(現在は暗渠)で、この辺りでは藍染川と呼ばれていた。夏目漱石「三四郎」の道といわれている。「三四郎」によると湿地帯であった川沿いは人家も途絶え「谷田田圃(やだたんぼ)」と言われるタンボが広がっていたという。これを大正時代に暗渠にしてできた通りに「夜店」ができたのが「よみせ通り」の始まりと言われる。

すし屋乃池
    谷中銀座商店街を中ほどの茶舗金吉園まで戻り、金吉園と野中ストアーの間の狭い路地を右に入る。この辺りは、宗林寺の裏側にあたり、一段と低くなっている。昔は藍染川に至る広い範囲が湿地帯で蛍沢といわれ、蛍が飛び交っていたものと想像される。このような”本当”の路地も谷中を味わう良い体験だと思う。道なりにかなり狭い路地を行くと別の路地と交差するので、これを左に曲がると銭湯初音湯前を通り先ほどの岡倉天心記念公園前の六阿弥陀道に戻る。右に折れ先ほどとは反対方向に進むと駐車場の外れに「六阿弥陀」と彫られた石の標識がある。谷中コミュニティセンターから岡倉天心記念公園辺りまでを「うぐいす谷」と呼んでいた。


伊勢辰
    谷中コミュニティセンターを右に50mほど入った右側に小さな児童遊園地があり、その中に、三四真地蔵がある。このお地蔵様は、近隣の空襲で犠牲になった70人以上もの方々を供養するために昭和23年(1948)に建てられたもの。名前の由来は、当時の三崎町・初音町四丁目・真島町の名前から一文字づつ採ったもの。

    谷中コミュニティセンターとバイキンマン地蔵のある立善寺前を通る。右側に大円寺のレンガ塀がある。豆屋の先で三崎坂に出る。通り向かいは、谷中小学校である。瓦になます塀もどきのデザインに感心する。脇にはレンガ塀が保存されている。小学校前に錦絵の鈴木春信碑のある大円寺がある。谷中小学校の並びに伊勢辰(Tel03-3823-1453)がある。江戸千代紙の老舗で、この辺りの名所的みやげ物屋である。江戸情緒豊かな犬張子、千代紙を使った縁起物、小物入れ、姉様人形、カレンダーなどを売っている。谷中に来たら寄りたい店である。伊勢辰は元治元年(1864)の創業。谷中の店は昭和17年(1942)に開店。今でも昔ながらの木版による手刷りであるから価値がある。

    この先の信号のある交差点には、藍染川にかかる枇杷橋(合染橋)があった。碑がある。交差点の左にある路地は、よみせ通りからつながり藍染川を暗渠にした路地でへび道と呼ばれ、くねくねと曲がっている。この道は森鴎外「青年」の道として知られる。三崎坂を右側に見ると菊見せんべい(Tel03-3821-1215)やあなご寿司で評判のすし乃池(Tel03-3821-3922)がある。三崎坂の先は、千代田線千駄木駅がある。

谷中小学校
    さて、谷中小学校のところに戻ろう。三崎坂を登る方向には、妙円寺とNHKの大河ドラマ「宮本武蔵」にも登場した本阿弥光悦・光室(ほんあみこうえつ・こうしつ)墓のある妙法寺がある。その隣のマンションのあるところでは「谷中三崎町遺跡」が発掘されたところだ。少し戻り、谷中小学校のレンガ塀のある路地を行く。突き当たりの辺りには、明治7年(1874)に私立の高浜小学校があった。谷中小学校は、校舎が作られるまで高浜小学校の校舎を借用していた。突き当たって左に曲がる。この辺り一帯は、三浦志摩守の下屋敷であったが、明治維新の後しばらく森と化していたが、のち明治の大財閥「渡辺銀行」の創始者渡辺治右衛門の屋敷があり、初代が明石屋治右衛門だったので略して「明治(あかぢ)」と言った。明治38年(1905)からは、北側の一部に著名画家を輩出した「太平洋美術学校」があった(現在は諏方神社横に現存)。渡辺銀行が倒産後、「料亭緑風荘(りょくふうそう)」となった。その後、昭和16年ころに分譲住宅地となった。当時は一画が150坪ほどあり、"御屋敷町"と呼ばれた時期もあったが、相続などで現在は細かくなってしまった。また、和風の二階建てがほとんどだったが、現在はマンションも増えてきた。

みかどパンとヒマラヤ杉
    暫く行くと明治(あかぢ)坂の上に出る。渡辺銀行は昭和初期の金融恐慌で倒産したため「赤字坂」と揶揄された。坂を20mほど少し下って、石垣を楽しもう。坂沿いの石垣は平成5(1993)年度台東区景観コンクールで「まちかど賞」を受賞した。春にはツツジが美しいところである。右角の階段上の和風の邸宅は、谷中スタジオといわれテレビドラマや写真撮影の場として使われていて、ときどき有名俳優も見かける。反対側に「猫町カフェ29」がある。"29"は"肉球"の意味だとか。店内には"内猫"がいるが、"外猫"も遊びに来る。谷中では、"外猫(フリーキャット)"も大事にしている。脇に石段があるので上がる。突き当たりが大名時計博物館で、上口愚朗コレクションだ。春と秋の一時期にしか公開していないので、狙って行くなら事前の調査が必要である。一部屋しかない小さい博物館なので、時間もとらないから開いていたら、見ていこう。

    マンションの角から元の通りに出たら、右に行く。突き当たりは宗善寺(浄土真宗。妙法山)。右に見える急な坂は、三浦坂。江戸時代に美作の国(みまさかのくに:岡山県)真島の城主三浦志摩守の下屋敷があったことから、この名がついた。地番変更前まで、この辺りを真島町といった。三浦坂の途中に猫の置物などを売るねんねこ家がある。原則として土日祝日のみの営業。三浦坂をおりずに宗善寺前を左に路地を行く。突き当たり左は、領玄寺領玄寺貝塚がある。右に行くと、赤い門の蓮華寺、「足」に関する絵馬の延寿寺(日苛堂)、くちなしの垣根の奥は頤神禅院(いしんぜんいん)があり、山門脇にトイレがある。角のヒマラヤ杉のあるパン屋をみかどパンといい、目印の少ないこの辺りでは、便利は存在だ。

「貧乏が去る像」と「玉林寺脇井戸」
    ヒマラヤ杉の右側の路地を行く。俗に「おけいこ横丁」と呼ばれていて、この辺りで三味線の音色が聞けたらラッキーだ。妙福寺前には、新内節浄瑠璃太夫の岡本文弥が住んでいた。妙福寺の先の路地を右に折れるが、妙福寺とこの路地向かいの地は、旧谷中坂町79番地で、川端康成が一時居住していたところ。トンネルを越えて湯沢に行って帰ってから谷中に来た。川端康成はこの後横浜に移る。路地を入らず少しまっすぐに行った右側に妙泉寺があり、本堂前に「貧乏が去る像」があるのでご利益を得たい方は寄ってみてはいかがか。「金持ちになる像」ではないので念のため。さて、妙福寺脇の路地を行くと、正面は長運寺。道なりに左に路地を行くと路地の真ん中に木があったり、井戸のあるところに出る。井戸は前のお宅が、災害時のために管理されていて現役だ。路地を進むと、玉林寺の境内に出る。

天眼寺裏の井戸
    門前は善光寺坂である。つまり、言問い通りとなる。坂を若干登り花屋のところの信号を渡る。花屋のわき道を入る。少し行くと右側に路地があるので入る。急な曲がった坂を下ると、井戸が二つある。窓をギャラリーにした、超ミニギャラリーもある。2つ目の井戸のところを左に抜けたら、右に進むと道に出るので、右に行く。再び善光寺坂に出る。

天三味
    信号のところのそば屋は、自家製の麺で評判がいい。その先に太宰春台墓のある天眼寺がある。隣りには、和菓子の天三味があり、信号向こうには、昔せんべいの大黒屋がある。大黒屋の横を入る。しばらく進むと右側に蒲生君平墓のある臨江寺がある。

    お疲れ様でした。善光寺坂の先には、千代田線根津駅があるので、適当な路地を通って行くことをお勧めする。なお、時間と体力に余裕のある方は、根津神社または森鴎外の居住跡の「舞姫の間」(ホテル水月荘庭内)に立ち寄られてはいかがか。

レストラン:谷中・桜木ツアーでは、場所を特定しにくいので、各説明の中で触れた。
公衆トイレ:同上

(99) 大久保主水墓・河鍋暁斎墓・井上毅墓・加藤シヅエ墓・大沼枕山墓・市橋長勝墓・山田武甫墓・瑞林寺(ずいりんじ)

瑞輪寺

   慈雲山瑞輪寺。日蓮宗。天正19年(1591)、日新により創建された。谷中で最大のお寺。わが国水道の創始者である大久保主水(勝五郎忠行)の墓がある。瑞輪寺の境内の八角の井戸は、菓子製造用として大久保主水の子孫の大久保忠記が天保6年(1835)に掘って碑を立てたもの。
また、明治憲法や教育勅語の草案を書き文相にもなった子爵井上毅、大正・昭和期に産児調整運動や女性解放運動をした女性初の国会議員加藤シヅエ、明治の日本画家の河鍋暁斎、江戸時代最後の漢詩人といわれる大沼枕山(おおぬまちんざん)、戦国時代の武将市橋長勝および明治前期の政治家山田武甫(やまだたけとし)の墓がある。なお、昭和55年(1980)に蒲田梅屋敷の御座所が移転している。桂離宮とならび評されるほど立派なものだそうだが非公開。なお、吉良上野介の用心棒の清水一角の墓はないことが確認された。また、越前大岡"家"の墓はある(案内表示あり)が、女性の墓のようだ。江戸捕り物でおなじみの町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)の墓は、神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺にある。

韋駄天

(100) 韋駄天(いだてん)の西光寺(さいこうじ)

   仏倒山西光寺。真言宗。慶長8年(1603)に藤堂高虎が宥義(ゆうぎ)という僧侶を招き神田に創建した。江戸市街地の改造で当地に移転した。境内に韋駄天の石仏がある。石は朝鮮から運んだといわれる。韋駄天とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奪って逃げた鬼を追いかけて捕らえたり、僧の急難を救うといわれる神様。非常に足の速いことを「韋駄天走り」というが、これが語源である。平成17年(2005)マラッカ海峡で海賊に襲われた船の名前も「韋駄天」だった。

(101) 七面山祖師堂

七面山祖師堂

   しゃもじ寺ともいわれる。安産のしゃもじを祭ってある。日蓮上人が罪を許され佐渡から身延山に帰る途中、この地の武士関小次郎長輝の家に一夜の宿を求めた。そのとき長輝の妻は出産で苦しんでいた。そこで日蓮は、しゃもじに曼陀羅経を書いて与えた。それを妻の腹に乗せると易々と子が生まれたという。祀ってあるのはこのお経の書いたしゃもじである。もとは天王寺にあったが、天王寺の改宗でここに移された。なお、東京と冠しているのは、身延山の七面山に対するもの。境内は、瑞輪寺の一部であるが、瑞輪寺の山門は、別にある。

観智院

(102) 観智院(かんちいん)

   真言宗。慶長16年(1611)、照誉(しょうよ)の創建。御府内八十八ヶ所(ごふないはちじゅうはちかしょ)の第六十三番。御府内とは、江戸時代に江戸城(現在の皇居)を中心として品川、四谷、板橋、千住、本所、深川の内側の地域を指す。弘法大師ゆかりの八十八ヶ所のお寺を巡る有名な四国遍路(四国八十八ヶ所)を模して宝暦5年(1755)頃までに開創された。谷中には、このうち観音寺、加納院、明王院、観智院、多宝院、自性院、長久院の7箇所がある。また、火除不動尊がある。境内に台東初音幼稚園が併設されている。

(103)仮名垣魯文墓・目黄不動・板碑・永久寺(えいきゅうじ)

山猫めおと塚

   興福山永久寺。玉林寺の末寺。江戸時代初期の創建。仮名垣魯文(かながきろぶん)の墓がある。猫好きの魯文にちなむ「山猫めおと塚」がある。魯文は、親友の榎本武揚(えのもとたけあき)からもらった猫が死んでしまったときに、この塚を建てた。塚の文字は、太政官記事御用の「東京日日新聞」の主筆であった福地桜痴



天龍院

(104) 伊藤玄朴墓・伊東方成墓・高久靄崖墓・高久隆古墓・神波即山墓・天龍院(てんりゅういん)

   臨済宗天龍院。寛永7年(1630)に梅ー(ばいがん)が創建。江戸時代には正月に梅の花を幕府に献上していた。蘭法医の伊藤玄朴(いとうげんぱく)、明治天皇の御典医伊藤方成、文人画家の高久靄崖(たかくあいがい)と養子高久隆古(りゅうこ)、豪商で尊王攘夷論者の菊池教中および漢詩人・書家で教育勅語謄本を書いた神波即山(かんなみそくざん)の墓がある。

(105) 日尾荊山墓・本通寺(ほんつうじ)

本通寺

   法華宗。元和元年(1615)、玄昭院日用(にちゅう)が曹洞宗王林寺々有地の一部に創建した。天保9年(1838)現在地に移転。明治元年(1868)上野戦争で彰義隊の拠点となり一時消失した。伝教大師作毘沙門天王木像がある。谷中七福神の一つであった時期があるらしい。現在も毎月3日が毘沙門天の例祭日である。漢学者の日尾荊山(ひおけいざん)の墓碑がある。



(106) 山岡鉄舟墓・三遊亭円朝墓・弘田龍太郎墓・石坂周造墓・松本楓湖墓・山田良政碑・岡田満墓・宮本千代吉・村上俊五郎墓・荒尾精墓・長谷川尚一墓・全生庵(ぜんしょうあん )

全生庵

      明治13年(1880)山岡鉄舟の創建。鉄舟寺(てっしゅうじ)ともいう。臨済宗国泰寺派の寺。明治維新の際、勝海舟西郷吉之助とともに江戸城の無血開城をなし、江戸を戦火から救った山岡鉄舟の墓、近代落語界名人といわれ、山岡鉄舟も尊敬したといわれる三遊亭円朝の墓がある。墓石の書「三遊亭円朝無舌居士」は、山岡鉄舟の筆による。全生庵前の三崎坂は、円朝の落語の怪談「牡丹灯篭」の舞台となった。全生庵には山岡鉄舟木像(高村光雲作)、観音像百幅(富岡鉄斎作ほか)、幽霊画五十幅(円山応挙、菊地容斉、谷文中、安藤広重作など)、西郷隆盛その他大家の書などが多数所蔵されている。幽霊の絵の殆どは円朝が収集したもの。毎年円朝忌(えんちょうき)のある8月になると一般公開される。また、全生庵前の三崎坂を舞台とした「牡丹灯篭」などの落語も演じられる。また、童謡「叱られて」や「春よ来い」の作曲家弘田龍太郎の墓もある。その他、攘夷派の志士で後に石油業界の先駆者となった石坂周造墓、画家松本楓湖墓、孫文撰文の山田良政碑、新撰組6番小頭の村上俊五郎、日本のアジア外交を憂いた荒尾精墓、および阿部守太郎外務省政務局長暗殺犯人岡田満墓と宮本千代吉墓、国産石油開発の先駆者長谷川尚一墓がある。また、元中曽根首相が座禅を組みに来た寺としても知られている。なお、金ピカの谷中大観音がある。北村西望作、高さ6m余り。平成3年(1991)開眼。

明王院

(107) 金子薫園墓・明王院(みょうおういん)

   新義真言宗。慶長16年(1611)、弁円(べんえん)の創建。江戸時代初期に神田から移転してきた。御府内八十八ヶ所(ごふないはちじゅうはちかしょ)第五十七番目。歌人の金子薫園(かねこくんえん)の墓がある。



(108) 下村観山墓(しもむらかんざんのはか)・川上不白墓(かわかみふはく)・安立寺

安立寺

   日蓮宗。寛永7年(1630)創建。この辺りを初音(はつね)の森という。安立寺の境内に日本画家の下村観山墓と茶道江戸千家初代宗主川上不白墓がある。



加納院

(109) 加納院(かのういん)

   新義真言宗。慶長16年(1611)に尊慶が創建。阿弥陀如来と弘法大師をまつってある。御府内八十八ヶ所の第六十四番目の札所。山門が赤いため、この辺では「赤門」といわれている。赤門のすぐ横の観音寺の築地塀を加納院の塀だと勘違いする人もいる。

(110) 蛍坂(ほたるざか)

蛍坂

   加納院の赤門を北へ細い路地を行くと急な坂がある。蛍坂である。「ころぶと3年の内に死ぬ」と言い伝えられており三年坂との異名がある。周囲はうっそうと繁った木々があり、野生のリスが見られる。安立寺に続くこの辺りも「初音の森」の一部。享保(1716-1735)頃、陶工尾形乾山が京都の鶯を上野輪王寺の宮、公寛法親王(こうかんほうしんのう)へ献上したところ、宮がこの地に放されたことから命名されたという。明治4年(1871)より昭和37年(1962)に地番改正になるまでこの辺りを初音町と呼んでいた。

六角堂

(111) 岡倉天心記念公園(おかくらてんしんきねんこうえん)

   日本美術界の先覚者である岡倉覚三(後に天心と名乗る)の旧居地で、前期日本美術院の跡。ここには平櫛田中作の「天心座像」奉安の六角堂がある。

(112) 宗林寺(そうりんじ)

宗林寺

   日蓮宗。境内に萩が多く、萩寺とも呼ばれている。この付近は蛍沢とか蛍川とも呼ばれ「ほたるざわ」の碑が門前にある。藍染川谷田川)を背にした湿地に夏の夜には蛍が群れをなして飛んでいたという。家康に仕えた茶道家斎藤六郎左衛門宗林(元亀3(1572)年12月に、三方原の合戦で戦死)が神田に興し、元禄の頃この地に来た。斎藤宗林に関しては諸説があって定かでないが、家康の側近にいて重要な地位にあったといわれる。そのため寺格が高く、住職は十万石の大名と同じ扱いだったという。



谷中銀座商店街

(113) 谷中銀座商店街(やなかぎんざしょうてんがい)

   日暮里駅から西にまっすぐ来たところにある。入り口のところの石段を「夕焼けだんだん」と呼ばれ、夕焼けの美しいところとして慕われている。また、この辺りは延命寺裏貝塚があり、石段下のビル建設時には、発掘が行われた。商店街は、テレビドラマの背景にもなり、活気のある街である。六地蔵通りを北へ少し行くと花篭などを竹で作る店(翠屋)がある。商店街入り口の角には漢方飴などを売る後藤屋がある。

鈴木春信碑
笠守お仙碑

(114) 大円寺(だいえんじ)

大円寺

      日蓮宗。天正19年(1591)創建。永井荷風選文の「笠森阿仙」の碑と、錦絵の創始者でお仙を描いた鈴木春信(すずきはるのぶ:享保10年〜明和7年:1725-1770)の碑がある。両方とも大正8年(1919)、春信150回忌に建てられたもの。本来は福泉院跡の功徳林寺に建てられるところ間違えてしまったものといわれる。大円寺は「瘡守(かさもり)稲荷」(皮膚病の神様)として有名だったこともあり「笠守(かさもり)稲荷」と同名異神のためよく混同されたという。つまり、大円寺は笠森阿仙とは何も関係がないのであるが、この碑によりややこしくなってしまった。この寺の本堂は二つの本堂が胴で繋ぎ合わされたように繋がっている。右が「瘡守稲荷」のお社殿、左が経王殿で仏殿である。10月中旬の週末には菊祭りが行われる。なお、現、功徳林寺も地理的に笠守稲荷がこの場所にあったというだけで、内容的には笠森阿仙とは何の関係もない。功徳林寺の境内に別の稲荷があるので、これを笠守稲荷だと錯覚しやすい。

笠森阿仙の石碑には、次のように記されている。
女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大州に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎや阿仙春信が錦絵に面影をとどめて百五十余年都内の粋人春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。 時恰(ときあたか)も大正巳未夏六月 鰹のうまい頃 荷風小史識

(115) 妙円寺(みょうえんじ)

妙円寺

   日蓮宗。龍江山妙円寺。慶長4年(1599)、日如(にちにょ)が創建。生髪鬼子母神(せいはつきしぼじん)がまつられている。谷中小学校前の三崎坂(さんさきさか)を登っていくとなだらかに左に曲がる部分があるが、この辺りのお寺の塀が続く様が美しい。妙円寺はこの始まりに位置する。

(116) 本阿弥光悦墓(ほんあみこうえつのはか)・本阿弥光室墓・妙法寺(みょうほうじ)

妙法寺

   妙円寺の隣に、立派な山門のあるのが妙法寺。日蓮宗。慶長13年(1608)、日如の創建。本阿弥光悦と本阿弥光室の墓がある。妙円寺とは境内がつながっている。山門から境内に至る石畳のなだらかな坂は素晴らしい。隣に大きなマンションが建ってしまったのが残念。



(117)谷中三崎町遺跡(やなかさんさきちょういせき)

   妙法寺に隣接するマンションのあるところは、「谷中三崎町遺跡」があったところで、その建設に先立ち平成11年(1999)に発掘された。江戸時代の正運寺(しょううんじ)跡でもあり、多数の墓や大型地下室、幕臣井戸氏(どこの井戸氏だか不明)の墓誌や多くの鏡、名前が書かれた土面などが出土した。また、縄文時代の土器も出ている。マンション脇に正運寺跡である旨に説明がある。

大名時計博物館

(118)大名時計博物館(だいみょうどけいはくぶつかん)

   上口愚朗コレクション。櫓(やぐら)時計、台時計、掛時計などを展示している。そのうち和時計12種58個は東京都の指定を受けている。1部屋しかない小さな小さな博物館。夏と冬は公開していないので注意。

開館時間:10時〜16時
休館日:月曜。夏(7月〜9月)。冬(?月〜?月)
入館料:大人300円、大高200円、小中100円

(119) 領玄寺の貝塚

領玄寺の貝塚

   日蓮宗。寛永3年(1626)に日長が創建。境内の奥に縄文時代中期の「領玄寺貝塚(りょうげんじかいずか)」があり、隣接の頤神禅院(いしんぜんいん)墓地まで続く。ハマグリ・アサリ等の貝殻、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく:石製矢じり)等の石器、縄文土器などの遺物が発見されている。小さな標識がある。屋内のガラスケースに土器が展示されている。谷中の貝塚は、国立博物館裏から鶯谷にかけて存在した「新坂貝塚」、谷中銀座から延命院裏一帯にあった「延命院裏貝塚」、天王寺五重塔からキリスト教墓地一帯にあった「谷中天王寺貝塚」の4箇所。



細田栄之墓・富士松魯中墓・蓮華寺

(120) 蓮華寺(れんげじ)

      赤い門なので赤門の寺と呼ばれている。日蓮宗。寛永7年(1630)、日賢が創建。上野戦争を含めそれ以前の幾多の災害にも遭わず創建時の貴重な建築様式をとどめている。墓所中央に鳥居清長(上野公園ツアー参照)の門下であった浮世絵師細田栄之墓がある。富士松魯中墓は最近になって合祀されてしまった。境内に手漕ぎ井戸がある。手入れの行き届いた境内が美しい。

(121) 頤神禅院(いしんぜんいん)

頤神禅院

   臨済宗。象頭山頤神院。本郷湯島に頑海が明和5年(1768)に創建し、明治20年(1887)に当地へ移転した。帝釈天(たいしゃくてん)が祭られている。



延寿寺

(122) 絵馬・横綱鳳谷五郎の墓・延寿寺(えんじゅじ)

   日蓮宗。明暦3年(1657)創建。延寿寺日苛堂(にっかどう)は、日苛上人を祀った足の神様。日荷上人は、鎌倉時代後期、武蔵国久良岐郡六浦〈むさしのくにくらきのごおりむつら:神奈川県横浜市金沢区)を中心に活動した日蓮宗僧侶。下駄や草履が奉納されている。かつて金沢称名寺の僧と囲碁を打ち、称名寺の仁王尊を賭けたところ日苛が勝ち、この像を背負って金沢から身延山久遠寺〈みのぶさんくおんじ〉山門まで駆け登ったという。もうひとつの伝承は、日荷上人は、六浦で大きな仁王像を造り、日蓮宗本山の身延山山門まで、一昼夜のうちに自ら背負い運び上げたというもの。このため日苛上人は、大力と健脚の神とされ、日荷堂の内部には足・腰の病気平癒を祈願したり、願望成就のお礼のために奉納された絵馬や文字額が多数掲げられている。現存する絵馬は75点、文字額は8点 。年代は、明治時代59点、大正時代4点、昭和時代(戦前)3点、年代不明17点で、昭和20年以後のものはない(台東区調査)。また横綱鳳谷五郎の墓がある。現在でも車椅子の貸し出しステーションとして貢献している。

(123) 玉林寺(ぎょくりんじ)

玉林寺

   望湖山玉林寺。曹洞宗。天正19年(1591)創建。本堂裏に椎の大木(樹齢600年、都指定天然記念物)がある。また、美しい庭園があるが残念ながら非公開。

(124) 善光寺坂(ぜんこうじさか)

   玉林寺前の坂を善光寺坂と言う。かつて、長野(信濃の国)の善光寺の別院である尼寺があった。信濃坂とも呼ばれていた。現在善光寺という寺はない。坂を登る方向に行くと、隅田川の言問い橋に至るので、言問い通りと一般に呼ばれている。坂を下ると、千代田線根津駅に出る。昔は藍染川ゆかりの「藍染」と呼ばれた地区である。また、戦後は闇市があった。さらに先は、東京大学のある本郷を通り、春日に至る。

(125) 太宰春台墓・天眼寺(てんがんじ)

天眼寺

   臨済宗妙心寺派。江戸時代中期の儒学者である太宰春台の墓がある。また、武蔵忍藩(奥平)松平家の菩提寺でもある。



臨江寺

(126) 蒲生君平墓・臨江寺(りんこうじ)

   臨済宗大徳寺派。寛永7年(1630)創建。蒲生君平(がもうくんぺい)墓がある。