藤野海南(ふじのかいなん) 文政9年〜明治21年3月18日(1826-1888)
明治前期の歴史家。名、正啓。字、伯廸。松山藩員。嘉永元年(1848)昌平黌で史学を学んだ。同学にて重野成斎・三浦安針・巌谷修らと親交を結ぶ。傍ら、蘭学を河野通猶、暦法を小松無極に、航海術を勝海舟に学ぶ。嘉永6年(1853)藩校「明教館」寮長。万延元年(1860)再度江戸に出て昌平校舎長兼詩文掛となる。戊辰の役の際松山藩の長州征伐や戦後処理に尽力した。明治元年(1868)藩が朝敵として追討された際、藩論を統一し恭順させ、謝罪書を岩倉卿に哀をこうて事を収めた。長州再征の役の際は、一番大隊を率いて出陣。明治2年(1869)昌平黌教授となり、藩政改革の際に帰藩し、諸官を歴任、権大参事となった。明治5年(1872)には藤野海南の主導で「旧雨社」が創設され、その社盟には重野成斎、岡鹿門、鷲津毅堂、阪谷朗虚、南摩羽峰、木原老谷、那珂梧楼、小山春山、川田甕江・中村敬宇、秋月楽山、村山拙軒、萩原西疇、依田学海、信夫恕軒、亀谷省軒、島田篁村、股野藍田、日下勺水、小野湖山、岡松甕谷、小永井小舟、森春橙濤らが参加した。また同年東京府誌を編修。その後明治9年(1876)修史館編修者になり「先朝紀略」等を編纂した。修史局では、重野安繹と親交を持つ。63歳。
墓は、天王寺墓地。ぎんなん横丁側。了イ完寺横辺り。正面「海南藤野先生墓」。