七福神は、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、布袋尊、寿老人の七人だが、このうち日本製の神様は大国主命(おおくにぬしのみこと)の子とされる恵比寿だけ。他の六人は外国製である。七福神の原型は室町時代にでき、当初は天鈿女命(あめのうずめのみこと)が入っていたが、後に琵琶湖の竹生島の弁財天が流行し、入れ替えられたという。江戸では、享保年間(1801-1804)に「谷中の七福神」詣でが始まり、続いて「向島七福神」「山の手七福神」も作られた。江戸中期から末期にかけて正月の七福神詣でが流行した。なお、大正、昭和初期のブームでは、亀戸、深川、麻布、東海(品川)、浅草、柴又などにも七福神が作られている。戦後には、日本橋、池上、新宿山手、下谷などが作られた。最近では、板橋、多摩(青梅)、八王子などが作られている。

    元祖七福神巡りとされる谷中七福神は、長い間に変化している。本通寺の毘沙門天は一時七福神の中に入っていたというし、経王寺の大黒天も可能性があったのではないか。いずれにしても現在の谷中のエリアを越え、上野不忍池から北区田端まで及ぶ。どこから始めても良いのだが、細長いので自ずと、弁天堂から東覚寺へ、または、この反対の2通りになる。ここでは、弁天堂から東覚寺へのコースを案内する。



春の不忍池
    JR上野駅、京成上野駅、地下鉄上野広小路駅などから、不忍池の弁天堂前に集合する。社務所にて七福神巡りの台紙を購入する。各寺院に寄るたびに台紙に印を押してもらうことになる。つまり、スタンプラリーである。

   不忍池の誕生には諸説があるが、武蔵野台地の東のはずれの一分脈で隣は本郷台地である。この谷間が西ヶ原まで海の入り江だったという。次第に隆起するか土砂が堆積するかして干上がった。その一部が池となり残ったが、これを利用して海水の遡上を止めるために西ヶ原方面から流れていた谷田川を堰きとめて作ったものである。この谷中七福神巡りは、谷田川に沿って歩く部分も多い。

弁天堂と水盤舎
(1) 寛永寺弁天堂(台東区上野公園2-1)

   寛永寺直末として天龍山妙音寺生池院と別号も名乗っていた。一般には不忍弁天の別当寺として知られていた。<寛永2年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、東叡山寛永寺を開山後、常陸(茨城県)下館城主水谷(みずのや)勝隆が、不忍池を琵琶湖に見たて、竹生島(ちくぶじま)に相当する中之島(弁天島)を築き、竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)の大弁財天を勧請し、弁天堂を建立したもの。弁天堂本尊は慈覚大師の作といわれる八臂(はっぴ)の大弁財天で、音曲の神でもある。脇士は毘沙門天と大黒天である。正面左側の一際目立つ琵琶碑は、「この大弁才王菩薩は願い事を何でもかなえる」といった主旨のことが書かれている。書は山岡鉄舟。昭和20年(1945)の戦火で全焼、昭和33年(1958)本堂を昭和45年(1970)大黒堂(護摩堂)と書院を再建。

    本堂の天井には、児玉希望(こだまきぼう)筆の「金龍」を、また本堂前の手水鉢の天井に谷文晁(たにぶんちょう)が70歳のときに描いた「雲龍の図」を見ることができる。保護のためにガラスが張ってあるので見難いが一見の価値がある。

         舟で島と往来することを望んだ天海僧正が寛永20年(1643)に没すると寛文の末(1670)に木製の天龍橋が架けられ、その入口に唐金の鳥居が建てられた(現在の橋は昭和5年(1930)改装の石製)。弁天堂は、昭和20年(1945)の空襲で焼失し昭和33年(1958)9月に再建された。

一円庵
    弁天堂から東へ清水堂の方に歩き、動物園通りを左折する。しばらく道なりに行くと、ホテル鴎外荘が見えてくる。ホテル鴎外荘の前を通り過ぎるのだが、せっかくだから寄り道してホテル鴎外荘の手前の道を左に約30m行くと、川上不白が居住していた「一円庵」がある。非公開だが、門を見に行こう。
    明治の初期、江戸千家七代蓮々斎が玄関、寄付と共に他から譲り受け池之端に移築したもの。寄付の正面右に丸炉があり、その前壁に太い古風な柱がある。柱には二行書きで「三冬古木秀 九夏雪花飛」という不白の文字が彫られている。茶室は、寄付の隣に廊下をはさんで配置された三畳台目の席である。昭和37年東京都重宝文化財の指定を受けた。

    ホテル鴎外荘の中庭にお邪魔しよう。森鴎外は、明治22年(1889)海軍中尉赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏、下谷区上野花園町11番地(現、台東区池之端3丁目3-21)と呼ぶこの地に移住し、翌年10年上旬、本郷区千駄木町57番地(現、文京区千駄木1-23-4:森鴎外記念図書館)に移るまで、鴎外はこの地に住んだ。
その家屋が「鴎外荘」としてこのホテルの中庭に保存され「舞姫の間」がある。また、和風の庭に「舞姫の碑」と「於母の碑」もある。
    ホテル内には「鴎外温泉」がある。カルシウムやラジュウムなどを含んだ重炭酸ソーダの都内第1号の天然温泉である。15時以降は日帰り入浴可能(1000円、タオル、バスタオル付)。大理石風呂と桧風呂の二種類があり、「福の湯」は大理石風呂。「檜の湯」は樹齢2000年の檜の中から柾目の美しい無垢材を厳選し、漆を丹念に塗り重ねて仕上げた、東京では初めての古代檜漆塗り風呂。男女日替わりである。入浴して行くのも面白い。

護国院大黒天
    動物園通りを文字通り動物園の裏門前を過ぎ、信号のある交差点を右に曲がる。坂を上り、上野高校前を道なりに右に曲がると、護国院大黒天の木々が見えてくる(トイレがある)。


(2) 護国院・大黒天(台東区上野公園10-18)

    護国院は、寛永寺36坊の一つ。もともと東叡山釈迦堂だったもので寛永7年(1630)に建立されたが、享保2年(1717)に焼失し享保7年(1722)に再建され今日に至っている。社務所でスタンプを押してもらおう

桃林堂
    大黒天からは、芸大方向に歩き、信号のところで左に折れる。交差点角には「桃林堂(とうりんどう)」がある。和菓子屋さんで、店内でお茶をいただくことができる。店員さんが抹茶をたててくれるので、一服するのも良い。

    反対側に和風の民家があるが、これは上野桜木会館だ。明治末期の建物。洋画家寺井力三郎の生家である。台東区の管理で貸し席として開放している。細い道を歩き言問通りに出る。信号を渡ると「旧吉田屋本店」がある。無料なので立ち寄ってみよう。急に谷中らしく感じられる。

旧吉田屋本店
   谷中墓地入り口近くにあった吉田屋酒店が改築の祭に台東区に委譲し、言問通り沿いに移築され保存されている。昭和初期の酒屋の様子を見ることができる。この施設は、不忍池畔の下町風俗資料館の附設展示場である。

開館時間:9時30分〜16時30分
休館日:月曜
入館料:無料

愛玉子
    旧吉田屋本店脇を北に(言問通りではない)進むと、「愛玉子(Tel03-3821-5375)」と大きな看板のある甘味処がある。愛玉子というのは桑科の植物の種子が原料で台湾では良く食べられるという。寒天そっくりな食べ物。他では食べられないので話の種にオーギョーチーなるものを食べて一服しよう。店名は藤山一郎の命名。

   向かい側にはかなり古そうな和菓子屋さんがある。「岡埜栄泉(おかのえいせん:Tel03-3828-5711)」である。上野の岡埜栄泉ののれんを分けた明治33年(1900)開店の和菓子屋。店の名物は生姜入りの「浮草」。生姜と餡(あんこ)の絶妙な味が評判。日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さんの実家だそうだ。となりは大雄寺だ。

高橋泥舟墓と灯台守の碑


   大雄寺は日蓮宗。慶長9年(1604)創建。新選組の高橋泥舟の墓が境内にある。勝海舟山岡鉄舟と並んで幕末三舟と呼ばれた。山岡鉄舟の義兄(泥舟の妹が鉄舟の妻)にあたり、槍術の達人。幕末では新選組の組長となり、最後まで徳川慶喜を守った。なお、境内には「灯台守」の歌碑がある。ぜひ立ち寄ることをお勧めする。

立原道造墓
    大雄寺側に沿って歩くとやがて急に道路幅が広くなる三叉路に出る。右方向に行けば谷中霊園である。その前に、三叉路左(西)側にある多宝院に寄ろう。多宝院には詩人の立原道造墓がある。

    道路を渡り三叉路を右にトイレ側の道を行く。左側に花やの花重がある。建物は国の登録文化財だ。その先に谷中霊園管理事務所があるので、霊園の地図(無料)をもらおう。地図の裏には有名人の墓のリストが印刷されている。墓地内の有名人の墓については、別の「谷中墓地ツアー」を参照して頂くとして、ここでの説明は簡単にしておく。トイレの隣りには、夫を殺し古着屋吉蔵を殺し刑死した「高橋お伝招魂碑」がある。このストーリーを仮名垣魯文が ノンフィクション小説「高橋阿伝夜叉譚」として売り出し有名となり、碑の裏にはこれを演目とした歌舞伎役者の名が見える。その隣りの円筒形の台座は明治の政治家で新派俳優の「川上音二郎の碑」である。妻は女優の川上貞奴でこの碑は彼女が建立した。その隣りは、明治新政府転覆の疑いで、小塚原で処刑された雲井竜雄(くもいたつお)の墓碑である。

長谷川一夫墓
    さくら通りを進み、駐在所(交番ではない。23区内唯一の駐在所)の前には長谷川一夫墓がある。反対側の角には初代花柳創始者の花柳寿輔(はなやぎじゅすけ)墓がある。駐在所横のぎんなん通りを行き、30mほど先の右側に、将棋の駒の頭のように尖った「中山氏之墓」と書かれた墓碑があるが、国定忠治を捕縛した関八州取締出役の中山誠一郎のお墓である。さくら通りの突き当たりに天王寺がある。

(3) 天王寺・毘沙門天(台東区谷中7-14-8)

    天王寺は谷中最古の寺である。昔は日蓮宗の感応寺だったが、法華経信者以外からは物を受けず施さずという不受不施派があり、幕府にも逆らっていた。そうでない身延山派との間で争いがあり、元禄12年(1699)に幕府により寺領没収となり、寛永寺と同じ天台宗に改宗させられ、寛永寺傘下の寺となった。名称の変更は、かなり後の天保4年(1832)長耀山感応寺から護国山天王寺へと変えられた。天王寺山門に立つと、左前に大仏が、右側に毘沙門天堂がある。正月と毎月1日と15日にご開帳があり、毘沙門天を拝観できるので、日を選んで行くとよい。なお、駐在所裏手には天王寺五重塔があったが、昭和32年(1957)に焼失した。さて、スタンプをもらって先に行こう
天王寺・毘沙門天


    駐在所のところまで戻り、右にぎんなん通りに折れる。数十メートル行くと右側に一際高い墓がある。順天堂創始者の佐藤尚中(さとうたかなか)墓である。また、通り向かいには明治期の教育者である中村正直(なかむらまさなお)墓がある。これは都旧跡に指定されている。この通りの突き当たりに長安寺がある。

狩野芳崖墓
(4) 長安寺・寿老神(台東区谷中5-2-22)

    長安寺には、本堂前の板碑は、鎌倉時代のものと室町時代のものであり、元(げん)の国が攻めて来たときに戦死した人も冥福を祈って造られた。また、日本画家の狩野芳崖(かのうほうがい)と妻ヨシ(明治20年没)の墓がある。本堂前の「狩野芳崖翁碑」には芳崖の略歴が刻んである。

    スタンプを済ませ次に進もう。山門を出て左にやや行くと直ぐに左へ行く路地があるので入る。目に付くのは築地塀だ。これは観音寺の裏手の塀で、谷中の名所になっているので写真を撮ろう。塀の先には加納院と本立寺があり、辺りは森のようにうっそうとしてくるが、これが初音の森である。道なりに本立寺の角を曲がると蛍坂と呼ばれる急坂がある。転ぶと三年以内に死ぬと言われているので気をつけよう。坂の途中に左へ下りる階段があるので、これを下る。谷中コミュニティセンター前を通り歯科医院のところで六阿弥陀道に出会う。これを右に曲がる。すぐ先の駐車場のところに「六阿弥陀」と書かれた道標があるので注意して見つけよう。
六阿弥陀道標
田端の六阿弥陀四番与楽寺から広小路の六阿弥陀五番常楽院に通じていた道である。

    やがて、右に行くと前期日本美術院の跡地の岡倉天心記念公園がある。園内の六角堂の中に岡倉天心像がある。その先は、萩寺として有名な宗林寺がある。秋の萩の花の季節に訪れるとたわわな萩の花を見ることができる。さらに進むと谷中銀座商店街に出る。寄り道をしてみるのもいい。時間のない方は、角の「後藤の飴」で昔しなつかしいニッキ飴やさらし飴でもおみやげにどうか。さらに進むと、竹細工の「翠や」がある。このような店があるのも谷中らしいところだ。道ナリに進み南泉寺と法光寺の前を過ぎると右側に「富士見坂」がある。坂上では富士山を見ることができる。都内で唯一だという。すぐ先のはでな塀の寺が布袋尊のある「修性院」である。

修性院
(5) 修性院・布袋尊(荒川区西日暮里3-7-12)

    修性院は別名花見寺とも言われる。江戸百景の一つとして安藤広重も絵にしている。絵葉書となったものがあるので購入も可。スタンプをもらって先へ進もう。

    六阿弥陀道をさらに進むと、青雲寺の入り口を右側に見ることができる。

(6) 青雲寺・恵比寿(荒川区西日暮里3-6-4)

青雲寺
    青雲寺は禅寺である。境内は広く庭木の手入れは行き届き美しい。本堂脇には滝沢馬琴硯塚と筆塚がある。「南総里見八犬伝」を書くのに使用した硯(すずり)と筆が供養されているという。スタンプをもらって先に行こう。

    さて、最後の一つまでだいぶ距離がある。青雲寺を出て六阿弥陀道を先に進むと、道灌山の広い通りに出る。これを横切って先に進む。この通りを突き当たりまで進み、銭湯のところを左に曲がる。少し行くと谷田川通りに出る。この信号を右に行く。道ナリに進むと田端駅に通じるバス通りに出る。これを右に曲がり信号のところを左に曲がると、何やら黒い仁王尊2体に赤い紙がたくさん貼ってあるのが目に入る。これが東覚寺門前である。

東覚寺
(7) 東覚寺・福禄寿(北区田端2-7-3)

    正しくは白龍山延命院東覚寺という。慶長元年(1596)に遷寺してきた。本堂に極彩色の福禄寿像がある。仁王尊の説明は門前に書かれているので読んでいただければ、なぜ赤紙が貼ってあるのかが判明する。

    さて、お疲れ様でした。最後のスタンプをもらって終了。帰りは、信号の通りまで戻り、左に行くとJR田端駅がある。やはり、出かけるなら正月が望ましい。どこも賑やかだし、社務所寺務所も開いている。グッドラック!